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自分らしさってなに? [ライフワーク]


みなさん、こんにちは。

私ごとですが、「自分らしく生きる」をテーマにしていると、
色々なところでシンクロに遭遇します。

それだけ、意識が向いているということですが、
ネット上でも映画の影響があってか、

「ありのまま」とか「自分らしく」などの言葉を目にします。


裏を返せば、「自分らしくできない」とか
「自分らしさが分からない」という方が多いのかもしれません。


あなたは如何ですか?

自分らしさがどのようなものか理解できているでしょうか。


私のことで言うなら、分かるまで長い時間を要した気がします。


「自分」ですから、内にあることなのですが、

外から取り入れるものとして探していたので、
いくら経っても見つかるはずもありません(汗)


これは多くの方が陥る罠のようなものですが、
外部に見つかるわけもないことに気付いたり、

探すことに疲れたりすることで、
答えは内側にあると理解できるのかもしれません。


とはいえ、自分らしさが分からない人は、とても多いです。


以前、養老孟司さんがテレビ番組の中で、著書「自分の壁」に触れ、
「本当の自分は分かるはずがない」と言っていました。

そんなことを気にするより「本物の自信」に目を向ける、とも。

著書の内容については割愛しますが、
自分らしさ=自信、に繋がるとも解釈できます。

嘘偽りのないことは、それ以上どうにもならないのですから、
何を言われようと、これしかないと腹を括れるわけです。

要は、自分について「自分はこれだ」と言えることが、
自分らしさの一端であると思います。

外から引っ張ってきたものは、自分以外のものですから、
どんなに情報を集めようと、偽物である可能性があります。

情報をヒントに自分を確認するのが正しい探し方です。

とは言うものの、やはり「探す」というよりも、
「気付く」が妥当ではないでしょうか。

外部から遮断された状態で、自己と繋がることで分かるのだと思います。

昔から瞑想が重用されるのは自己と繋がる手段だからで、
「全ての答えは自分の中に用意されている」のです。


自分らしさが分からないときは、
自己の内面にフォーカスすることで分かります。

なかなか難しいものですが、
「自分らしさってなに?」と自分に問い続けることで、
あるとき、スッと答えが降りてきたりします。

私的には、「自分らしさ」を知ることも壮大な人生のテーマであり、
いつになっても分からないと嘆く必要はないと思っています。

自分らしさを確認するヒントは、

どう解釈されようが「これが自分」というもの。

周囲の目や評価を気にしないこと前提に、

これが「素」です、と言えるのはどのようなものか。

自然体と言えば簡単ですが、

誰にも合わせないなら、自分はどんな感じなのかな、
と考えてみるのもお勧めです。

自分のことだから内側にあるという視点。

周囲に翻弄されていると感じた時にも、
エクササイズとして思い出してみてください。


くれぐれも、自分らしさが分からないのが、
悪いことなどと思わないでくださいね。


望むライフスタイル=自分らしさ、ではありませんし、
多くの人に支持されることでもありません。

背伸びもしない、媚もしない、卑下もしない
自然体の自分の延長に願望を据えてみるのもお勧めです。

自分発見の旅はずっと続きます。

未だ知らない自分を見つけることも、自分らしさの気付きですw

肩の力を抜いて行きましょうw


それでは、一滴追加です。

今回も最後までお読み頂き、ありがとうございます。








人生を諦めた瞬間 [ライフワーク]


みなさん、こんにちは。

前回は、自由の誤解という感じでお話しましたが、
今回も関連してみたいと思います。

「人生を諦めた瞬間」

言い換えると、「自由を諦めた」です。

もちろん!?私のことです。


私の自由は組織に属さずに、自分を表現すること、
そして、時間や経済的にも自分の裁量が利くことでした。

その結果が起業だったのですが、
一時的に手にした感じた「時間の自由」以外は、
意図するものではありませんでした。

情報発信は出来たものの、
サラリーマン時代に得た収入や生活の安定感も
なくしてしまいました。

時間に自由だって、本当は勘違いかもしれません。

平日に用を足せるようになったのが自由かといえば疑問がありますし、
当時は、その程度を自由と認識していたのです。

時間通りに出勤したりしないことに開放感があったのは確かです。
(まあ、勘違いでもないですが。)

深夜に仕事をするのも、心理的に義務を感じていないだけで、
やらなくては収入にならない、という点では残業よりも圧迫感があります。

ほどなくして、「全てを失った」ような焦燥感に陥り、
あるものといえば、これからも上手くいかないであろう、
自分への疑念と膨大な借金だけでした。

そして、こう思いました。

「なんで、こんなことをしたのだろう」と。

実のところ、俗に「成功者」と言われる方々も、
当たり前のように経験することだったりするのですが、

いくら想定していても、実際に巡り合うと、
心穏やかとはいきません。

ここで、「どん底」に至ったのですが、

いつしか希望に溢れていた自分はどこかに去り、
そこに居たのは、後始末をつけようという自分です。

もう、盛り返すことは出来ないと思い、

「借金を返済できれば、今回の人生は終わりでいい」

と結論付けたのです。

誤解の無いように言いますが、
「そこまでしか生きない」ではありません。

要は、やりたかったことは次の人生で、
リセットしてからやり直そうという感じです。

自由には責任が伴うのですが、
私の場合、自分の失態で周囲に迷惑を残すことは容認できなかったのです。

その結果が、「きれいにしよう」なのですが、
完全に負のスパイラルに嵌まっていましたから、

「今がどん底なら、あとは上がるだけ」なんて思えませんでした。

現実としては、新たに働き始めた収入のほぼ全てが返済に回り、
他人が抱える住宅ローンなどと金額が一緒でも、
こっちには何も残らない、という顛末です。


ただ、思い返してみると、

「返済=終い」という考えは、
どこかで「吹っ切れた」に繋がったのでしょう。

さらに、「これだけの収入を得て一生安泰」みたいな夢も
手放せたのだと思います。

何しろ、安定から抜けたことで、
年金だって減ったり怪しくなるのですから、
それを上回るだけのものが得られなければ、
起業は「失敗」と思っていました。

そんなプレッシャーも意図せず、
サラリーマン時代に敵わないと諦め(手放し)たことで、
焦りから解放されて楽になったのだと思います・・今だから言えますが(汗)

さらに「終い」を設定することで、
老後など先行きの計算や不安も「余計なこと」になったのでしょう。

一日の積み重ねが希望に繋がらないのは苦痛でしたが、
それでも完済という新たな目標ができました。・・皮肉なことです(涙)

それにしても、言葉にならないくらいの絶望感がありましたし、
自由とは何かなど絵空事で、現実の不安が大きくなった機会でした。
(きれいごと抜きでね)


あなたからすれば、こんな私の経験も

「安易だったのでしょ」とか、

「馬鹿な、常識的に人並みの生活をしていればいいのに」

かもしれません。


でも、それも私が経験すべきことだったのです。

人それぞれに、人生で学ぶテーマは異なります。

裕福とか貧乏、

家族を作ると一人で過ごす、

組織で働くと自営で働く、

どこの国に生まれるかなどで左右されるのではなく、
魂の成長が基軸にあり、それに沿って生を受けます。

そして、生まれなどによる魂の優劣もありません。

どんな境遇にあっても、その人の魂の成長に適したものですから、
学ぶ必要のあることから逃れることは出来ませんので、

それを理解して成長していけるなら、
起こることへの心の準備も可能かもしれません。

私感ですが、想定が覆されるも織り込み済みと思いますw


こうは話てみても、

世の中には苦労を感じない人もいるのでは?と思いますよね。

確かにそうですが、それが個々のテーマの違いです。

単に、苦痛を表に出さないだけかもしれませんし、
あるいは、人により「苦」と感じる基準に差異もあります。

なので、一律に論じることは出来ませんし、

「いつか自分にもそんなことが・・」と危惧する必要もありません。

要は、自分のテーマに沿ったものがやってくるのです。

仮に、あなたが「とんでもない苦労」を経験することになっても、
越えられない壁はやってきません。

その時に「無理」と思えても、
歩いていくことで、扉が開いていくのです。

そして、

「どうして自分だけ・・」と思える経験も、

どこかで「それを聞きたい人」がいるのです。

あなたのストーリーや言葉を道標として有難く感じる人がいます。

「あなたがいたから頑張れた」と思ってくれる人がいます。


私たちはには、人生のテーマと共に、

周囲への貢献があります。


貢献とは権力や経済力を駆使するものではありません。

人間としての貢献であり、魂での貢献です。


些か、抽象論に聞こえてしまいますが、
それがスピリチュアル的な見地です。

当ブログをお読み頂いているあなたには届いていると思います。

今回は「人生を諦めた瞬間」と題しましたが、
言葉尻を見つめないでくださいね。

表現の仕方なら、

「絶望の淵」とか、

「手放した(願望は手放して達成する)」とか、

言い方は幾らでもあります。


願わくば、

「どんなことも盛り込み済みか」と思って頂きたいw

どんなことがあっても、その先があります。

人生は思っている以上に壮大です。


自分の考える展開は、数あるパターンの幾つかに過ぎません。

思っている以上のことが起きて驚いたり、

想像できなかったことを「奇跡」と呼びますが、

奇跡は誰にでもあります。

出会うコツは、自分の思う道を進むということです。


今が望み通りならば結構なことw

そうでないからといって、闇雲に変化を起こす必要はありません。

今までと違うことが目的になっては意味がありません。

自分が望む方向が「今までと違う」から、

変化が必要になり、変化が生まれるのです。

それも、内なる自分が知っています。


自分がすべきことは、

何か対する、願望に対する思いの強さを認識することです。

四六時中?なんて心配は無用です。

「自分はこれ!」と定まれば良いのですw


今回は長くなってしまいましたが、

なぜだろう・・

というか、最適なタイミングで最適なトピックなだけですw

どんな情報も必要に感じれば、

いつか点が線として繋がっていきます。

毎日の経験も同じです。

無駄なことはないという視点。

今回もお勧めさせて頂きます。


それでは、今回も一滴追加です。

長い記事を最後までお読み頂き、ありがとうございます。


























自由の誤解 [ライフワーク]


みなさん、こんにちは。

今回は素朴にいきます・・私的にw

「自由」に憧れるのはよくあることです。

というか、皆、自由でありたいと願うものです。


この自由ですが、私はよく「心の自由」を言葉にしています。

どう思うかは他人にコントロールできない部分ですので。

一方、一般的に自由とは?と問うと、

組織の不自由さから抜け出すことなどが挙がります。

それだけなら良いのですが、
独立することが最善とか正解ではありませんよね。

時間の自由など部分てきな比較は出来ますが、
組織人にも起業家にも一長一短があります。

これには深く触れる必要もないと思いますが。


ネットなどで「起業」をキーワードに検索すると、
さも独立が良くて、サラリーマンでいることが不可解であるかのような
書き方を目にします。

まあ、起業をネタにすることでメリットがある方の視点だと思いますが。

ただ、心配なのは、会社などに不満が募っていくと
方向性として「抜け出す」ための方法などに目が向いてしまいます。

こうなると、その先には独立や起業などの情報があるわけです。

自分の価値観に照らし合わせて、
独立はメリットが大きいとか「自分らしい」と思えるなら良し。

でも、闇雲に善悪のような比較をすると後悔の元になります。

よくある、「歯車の一つで終わりたくない」と感じるのは分かります。

しかしながら、簡単な話、

私たちが生活で必要とする物のほぼ全てが、
サラリーマンなど組織人の手によってもたらされているのです。

食べ物であれ、電化製品であれ、日用品、雑貨品、多くのサービスであれ。

生産から加工、流通に至るまで、
個人の起業家だけで賄えるものではありません。

そんな土台を忘れて、組織と起業の良し悪しを論じるのは、

愚の骨頂です。

もちろん、起業にはニッチは需要を満たすなどの役割がありますので、
どちらが良いではありません。

「自分らしい」を基準に、よりマッチする形を手にすれば良いのです。

私のもとにも、会社の方針や人間関係に疲れてしまい、
起業したいと希望する方がいらっしゃいます。

私は、人それぞれに「必要としている人がいる」と言いますし、
自分が売れるものは「個性」や「経験」にあると言いますが、
起業を容易いものと捉えないように気を付けています。

これまでの記事でも、時間の自由を得るには、
独立という選択肢も「あり」としていますが、
決して「独立しなさい」ではありません・・言うまでもないですが。

そんな選択肢もあると思えることで気持ちが楽になる。

気持ちが楽になり、心に余裕が出ることで、
「本当は、思うほど悪くないな」とか、

「そんな道もあるなら自分らしいな」とか、

色々な可能性に目が向き、本当の自分らしさを発見できる。

それこそが、自由への第一歩と考えているのです。

「これが嫌だから、こっちへ行かなくては」とか、

満足な道を歩いているけど、部分的に嫌(成長の機会)などで、
安易に逃げ場を探すようになってしまうと、

結局、何をやっても不満ばかりが積もってしまいます。

今一度、考えてみたいのは、自由とは何かです。


都合良く、ぐうたらに過ごせる人生でしょうか。

時間と労力を切り売りしながらも、
安定した生活が送れることは不自由なのでしょうか。

挙げればきりがないですが、どれも個人の感じるところです。

そして、自由に関わる責任は自分にあるということ。

厳しくも、都合よくもです。

商魂露わな自由に真意を惑わされないこと。

揺さ振りの中で、自分にとっての自由をしっかりと認識すること。

自由の乱立から、あなたの本物を守ってくださいねw

いつでも応援していますのでww


それでは、一滴追加です。

今回も最後までお読み頂き、ありがとうございます。




自由の敵は?依存という難敵 [ライフワーク]


みなさん、こんにちは。

ここ最近、私なりにお伝えすべき有用なことは何かを、
確認しているのですが、

欲しい情報が得られることが一番ですよねw

当ブログをお読み頂いている理由は、
「テーマ」であり、

きっかけは、タイトルが目に留まったからだと思います。

そこで、改めて質問してみます。


あなたは引き寄せの躓きから立ち上がったら、

何を引き寄せたいのでしょうか?


良好な人間関係?

経済的な安定?

やりたいことをする人生?

なんだか、ディメンジョンがばらばらですが、
ちょっと、こじ付けさせて頂くなら、

「自由を手に入れる」ではないでしょうか?

何を引き寄せるにも、自由が関わってくると思います。

さらにこじ付けて?みますが、

あらゆる自由を手にしていたなら、
引き寄せたいものだって自由になっているのでは・・
(この辺にしておきますw)

では、思い通りの引き寄せや自由そのものの獲得が
阻害されている(と感じる)原因は何か。

今までにも、ネガティブ思考や思い癖(偏った思考)

行動できない自分、負のループなどなど・・

色々なトピックを取り上げてきましたが、

今回は、「そもそも的」な部分でもある、

「自由と依存」の関係について取り上げてみますw


あなたは自由ですか?と問われた際に、

自由ではないと感じるなら、

不自由ということかもしれません。


では、その不自由の原因は何か。

自由がないと感じれば、何かに縛られていると解釈できます。

時間に自由がないなら、

自由に過ごせないような時間の割り当てがあるのですよね。


お金に自由がなになら、

入ってくるお金が自由にならない方へ流れていくとか、

端的に、自由にできるだけの額がないとか、

考えてみると、

「このせいで自由が奪われている」と思い当たるものがあるでしょう。

これは誰にもあることですから、
自分だけどうして・・などと思うことはありません。

そんな渦中にあっても、

「心の自由」とか「思うこと(内心)は自由にできる」ことを

お伝えしてきました(覚えてますか?w)


自由を阻害すること。

それは「依存」と密接に関係しています。

収入を得るための仕事も、

「これ(仕事)がないとやっていけない」と思ったりします。

自由になれるほどの金額を得られない仕事でも、

「これがなくなっらどうするのよ」みたいになります。

心の自由という観点でなら、

「こんな仕事なら稼げる」とか、

「宝くじに当たれば・・」など考えようがありますが、

実際には、満足できないにも関わらず「依存」しています。

「だって、これしかないもん」のように決めつけて、

寄り掛かっていこうとします。

時間など、他の不自由についても同様です。

「これがないと」と、

いつしか、あったはずの可能性に制限を加えて、

今の状態に依存してしまう。

私たちは「慣れ」に固執する傾向がありますので、

可能性も「未知の不安」が伴うことで遠ざけてしまいます。

そして、気が付いてみると、

何かしら、事あるごとに依存先を大事にしているのです。


もう少し例を挙げてみます。

離婚を考えている主婦なら、

離婚に踏み切れない理由として、経済面の不安が上位に上がります。

精神面では「もう無理」と心の準備が出来ていても、

一人になったら「やっていけない」と・・・

ここには経済的な依存が存在しています。

もっとも、蓄えなどを用意できていても、

踏み切れないなら、実は一人になるのが不安だったりします。

これは、配偶者なり周囲への依存です。


組織などでの仕事についてなら、

「こんな仕事辞めてやる!」と思いつつ、

「辞めた後の収入が問題」となれば、依存し続けます。


でも、どうでしょうか。

潤沢な蓄えがあり、仕事をしなくても一生安泰だったら。

とっくに辞めているかもしれませんよね。


こんなこともあります。

いつでも辞められる後ろ盾があったら、

「こんな仕事!」ってならないかもしれませんよね。

いつでも辞められるという「余裕」があることで、

イライラしたり、煮詰まったりしないわけです。


前述の離婚云々なら、

経済的な蓄えがある。

子供が巣立っている。

新たなパートナーもいる?!

だとしたら、「今度、嫌になったら切り出そう」

なんてなったりするかもしれません(なんか怖いですが(汗))


「これしかない」という思い込みは、

有るはずの可能性から目を遠ざけてしまいます。

そして、増々、「これしかない」としがみつくことになっていきます。

本当は嫌で嫌で仕方ないのに依存を深めていくのですから、
もはや出口など無いように感じてしまいます。

でも、依存しているけど、「それしかないではない」と、
認識できれば、それだけで心が楽になりますし、

遠ざかっていた可能性にも目がを向けられるようになるのです。


私たちは何かにつけ依存してしまいがちです。

敢えて、依存を肯定するなら、

自分の足で立てることが前提にあると、
心地よくなるかもしれません。

というか、そのような状況なら、
遠からず手放しの自由を追うことになると思いますがw


やりたいことがあっても、それが手に出来るかどうかの判断は、
制限を加えるか否かにあったりします。

「今がこうだから」とか

「どうせ・・」とか

過去や他者、現状などから駄目な理由を探してくれば、
実現への一歩は踏み出せないでしょう。

そして、この中にも依存は隠れています。

一般論への依存であったり、

慣れへの依存であったり。

何かに寄りかかることを安定と捉えれば、

いつになっても、思い通りの自由は手に入らないかもしれません。

自由と依存の関係。

少し理解して頂けたでしょうか。

依存については、まだまだ紙面を割く必要があるほど、
重要で理解を要することですが、

今回は、依存の存在についてお伝えしたいと思います。

「これなしではやっていけない」と思ったとき、

難敵?の存在を思い出してください。

攻略はできますのでご安心をですがw


それでは、今回も一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。









想定外な仕事を選ぶ人生 [ライフワーク]


みなさん、こんにちは。

今回は「やりたいこと」について、

私の場合を簡略にお話してみます。


私は、シンクタンクで調査研究を生業としていました。

これは、ある意味、

スピリチュアルとは対極にあるように思います・・私感です。


具体的には、みなさんがテレビや新聞などで目にする、

様々な問題や施策などに関する調査結果などを

コチコチ作っているとイメージしてください。


簡単に言うと、事実に基づいた数値データなどを用いながら、

論理的に解決策などを練っていくものです。


一方で、スピリチュアルについては、

人間の内的な部分からアプローチするものと解釈していて、

その根幹を成すのは、古来からの「教え」や「宇宙の法則」等で、

科学的なものとは、異質と考えていました。


なので、端的に、

仕事の成果をスピリチュアルに委ねるのは、

当然ながら業務的にありえないことです。


そんな「堅物」が行き着いたのは、

現代科学で全てを解決するのは無理ということです。

仕事以前のことで、一気に飛んでしまいますが(汗)


科学云々には異論もあるかと思いますが、

科学は常に進歩し、発展途上にあるわけですから、

まだ解決できないことが多々あるのも事実です。

くれぐれも私感です。


また、飛んで戻りますが、

例えば、仕事の「激務」を取っても、

人の「やる気」を司るのは、

理詰めの定義や結論ではなく、「心」です。


義務だって、感じるのは「心」ですし、

達成感も、形式的な成果とは別に「感じるもの」です。


食事を摂ると長時間労働に耐えられる、とは別に、

打ち込む精神が存在しますよね。


そんな、目に見えない「心の機微」を考え始めると、

良くも悪くも自分を動かしているのは、

数値データではないと容易に解釈できます。

そもそも、心の問題は存在位置が違いますけどね。


私も、改めて考え直したわけではないのですが、

自分の心の部分で、生き方に違和感を感じたのは確かです。


そして、こんなことも面白く感じました。

政治家の占い師頼り、

パイロットの参拝やゲン担ぎ、

素朴ですけど、

厳格さと曖昧さの同居のようなものを感じました。


人間の特徴は「心」を持っていることです。


職業柄、大企業の第一線で活躍する方や

著名な経営者の方々と接する機会でも、

平然とスピリチュアルを語られるの聞いてきましたが、

データとして取り込めないことについては、

気に留めずに「聞きながす」感じでいたのですが、

実は、意識下では、しっかり留まっていたようで、

いつしか気になり始めてきました。


そして、ある時、コップの水が溢れるように、

自然に「ゴーサイン」が出ちゃったわけです。

こっちだな、って。


全く以て、自分に合うものが何かって、

予想もしないことだったりします。


私の場合、自分の進む道について、

何か釈然としないものを感じてはいましたが、

まさか、反対?にシフトするとは想定外です。


「やりたいことが分からない」というお話の中では、

どんなに壮大で無謀と思えることでも願望で良いと言っています。


でも、それとは別に、

全く予想だにしないことでさえも、

ある時、「気付き」を伴って目の前に現れたりします。

そして、それを「掴む」まで、

幾度となく、「あれ、また?」のように、

形を変えながら、目の前に現れたりします。


もし、あなたが、

食わず嫌いとか、何となく嫌だと思っていることがあれば、

意外に「要注意 」ですw

実は、それが「本物」になる可能性がありますので。


なので、まだ自分の進む道が決まらない時は、

「あらゆる可能性がある」ということを

心に留めてください。


私が接してきた方々の中にも、

ライフワークが「近くにあること」で落ち着く方がいます。


と言いつつ、身近なことでも興味を感じないことを

掘り下げてみるのは苦痛だったりしますよね?


なので、嫌々考えたりしなくても、

閃いたり、何か気になると感じることがあったら、

素直に目を向けてみてください。


派手さがなく地味なことでも消沈しないで、

先ずは、正当に扱ってみてください。


そこから、見えてくるものがあるかもしれませんので。


我々は、自分で描く筋道を全てのように考えますが、

それは、数ある可能性の一つに過ぎません。


そして、及びもつかないことが起きると、

それを「奇跡」と呼んだりします。


でも、世の中に「偶然」がないなら、

奇跡ですら、想定内なのかもしれません。


そんな想定外も、あなたの中に

可能性として眠っていたりします。


いつ、どこで、何が転がり込むか分からないのが、

人生の醍醐味なのかもしれません。


あなたが心の扉を開いていれば、

色々な可能性が訪れるのです。


今回は、私のライフワークを例にしてみましたが、

仕事に限らず、あなたのやりたいことは、

手の届かない所にあるのではないということを

意識に留めてみてくださいね。


それでは、今回も一滴追加です。


最後までお読み頂き、ありがとうございます。








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