罰が当たる? [ネガティブ処方]
みなさん、こんにちは。
今回はワンポイントレッスンですw
ある知人(Aさん)との会話を紹介します。
最近、Aさんの身内でトラブルがあったそうで、
それを「自分のせい」と気に病んでいる話をしてくれました。
ただ、話を聞いていると、身内といっても長らく会っていないし、
Aさんがらみのトラブルでもありません。
それにも関わらず、「自分のせい」と捉える理由は、
自分の生活が思うようにいかない中で、
ふと、何かの際に、トラブルに合った身内の方が話題になり、
その次の日にトラブルが起きたとか。
???
どうやら、Aさんは自分の主観に過ぎない「負い目」のようなものが、
接点のない身内のトラブルに繋がっていると感じたのです。
ネガティブな自分のせいで、身内のトラブルを引き寄せた・・です。
そして、身内としての不幸の共有=「自分への罰」と解釈しています。
みなさんは、既にお気づきかと思いますが、
これ、罰ではないですよね。
というか、「罰があたる」というのは、一つの考え方に過ぎません。
実際に「罰」と感じることがあった際、
既に心のどこかで「罰」を想定している、
あるいは心配していることで、
有事の際にスピーディーな「罰反応」としてピンと来るわけです。
そう、引き寄せているのです。
因果応報とかより、引き寄せの法則を活用しているのです。
良心や正義感を掲げて生きていると、
悪しき行いには罰や報いがあることを前提にしますが、
実際、どの程度「実現」しているでしょうか。
周りにこんな人がいるかもしれません。
傍若無人に好き放題やっているように見えるのに、
「いつになっても罰が当たらない人」。
「あの人、そのうち、やらかすぞ・・」なんて思いながら見てるけど、
一向に罰の当たる気配もなし。
そうかと思ったら、こっちが嫌な目に合った・・なんてね。
好き放題やってる人に罰への恐怖がないのですから、引き寄せようもない。
仮に何かあっても「罰」なんて思ってないので、
簡単にスルーしてしまう。
一方、他人事とは言え「罰」という恐怖やネガティブ思考を持つ自分には、
それ相応のことが起こってしまうわけです。
また、「自分のせい」という視点を気にすると、
他人の人生に肩入れすることになります。
自分の人生が誰かに影響を与えないようにと思い、
周囲を気にし過ぎていると、人生の舵取りを放棄してしまいます。
他人の人生に肩入れし過ぎてはいけない、とは、
言動や行動とともに自分の心持ちにも言えることです。
誰しも、人生の主役が務まるのは自分のみです。
他人の人生を生きることはできません。
万人が同じ価値観で同じ人生を歩くのではありません。
関わる人は自分にとっては脇役、
でも、相手にとって自分は脇役。
その兼ね合いが上手く整っているのが宇宙、
あるいは神の采配の妙です。
「それなら、この人の人生のテーマは何?」と思うかもしれませんが、
それは、余計なお世話です・・端的ですが。
傍目には「苦労の連続の人」、「恵まれた人」もテーマはそれぞれ。
今回のテーマが、生を受けることの人もいます。
私たちが考えるべきは、自分の人生を主体性を持って生きることです。
他人に対する自分の行いが気になったときは、
「気にしてしまう自分」に気付く機会かもしれません。
もっと自分らしく、遠慮なしに人生を送る。
そんな気持ちを忘れないでくださいね。
それでは、今回も一滴追加です。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
2015-03-07 14:00
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