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癒されるなら海?それとも山? [雑記事]


みなさん、こんにちは。

桜の開花が話題になっていたかと思えば、
もう新緑が生え揃う時期になってきました。

実のところ、私はお花見よりも鮮やかな新緑が好きで、
これからの時期は一年で一番好きです。

今回のテーマの海・山で言えば、海かな・・ですが、
緑が映えるのは直感的に一番です。

それにしても、私たちは日々ストレスと格闘していますよね。


その処方が癒しだと思いますが、
よく、海派とか山派とか言われますが、あなたはどちらでしょうか。


どちらが良いとかではないのですが、
海派でも近くに海がなければ、景色を愛でることは難しいですし、
山もまた同じです。

以前にも、自分の癒しスポットを持ちましょう、と言いましたが、
身近なところに気分転換できそうなスポットがあると良いです。

とはいえ、大変な状況下にあっては、
行くことはおろか、行ってみても癒しを感じられないかもしれません。

そんなときは、自分の時間だけでも大切にしてください。

できることなら睡眠もお勧めですが、
「眠れないよ」ならば、ボーっとできれば良いです。

要は、考えても仕方のないことや、
悪い方にしか考えられない時に、いかに「そこから離れるか」なんです。

もちろん、他の場所ということではないのですが、
「ここに居ると色々考えてしまう」ということならば、

やはり、そこから離れてみることはお勧めになります。

これは、どこでも例外はありません。


私の相談者の方には「自宅がダメ」という方もいます。

一番、落ち着きそうに思える自宅が「合わない」わけです。

こういう方、実は結構います。

かといって、他に落ち着くところもなくて困っています。


それでですが、「どこか」でなくても良いのです。

例えば、「〇〇をしている時」が落ち着くでもOKです。


テレビを観ているとか、読書をしているとか、

あるいは、仕事に没頭しているとか・・なんでもです。


要は、他のことを考える作業から離れられば良いのです。

もっと言えば、没頭できることです。


実は、仕事が忙しいなんていうのも、「その後」が狙いです。


忙しさから解放された時にインスピレーションが降りてくるのは、
よくあることですし、これを利用している方もいます。

あなたも経験があるかもしれませんが、
仕事に夢中になっていながら、色々なことを思いついたりします。

まったく関係のないことなのに、ふと「そう思った」なんて感じです。


これは「感じたこと」なんです。


どうしたら良いかと潜在意識に投げかけていたことが、
こんな時に答えとして降りてきたりするのです。

これを意図して誘発させるのが瞑想なのですが、
瞑想という言葉で遠ざかってしまうのはしばしばです。

瞑想は目を閉じて・・・と決めてしまいそうですが、
そうではありません。

余計なことを考えずに居られるなら瞑想状態と言えるでしょう。

アメリカなどではメディテーション(瞑想)は、
ビジネスマンや成功するための常識的な手法と言われます。

一見、仏教圏が主体に見えますが、
少なくとも日本とアメリカでは、その評価には違いがあります。

話を戻しますが、癒される場所ではあれこれ考えたりしませんよね?

自然なり環境なりに落ち着きを感じたり、
ホットしたりしますから、思考から解放されることにもなります。

さらに、癒されることで元気が出たとか、
夢や願望を意識してわくわくしたりするなら、
瞑想の状態に近いものを体現しているでしょう。

なんにせよ、願望は前向きと定義しますので、
願望を否定的な感情や思考に邪魔されない場所を癒しの場として良いです。

海や山に限らず、都会の雑踏が良いという人もいるかもしれませんので、
理想がどこかではありませんが、自分の気持ちが優しくなれる場所は良いですね。

よく、ペットに癒される方がいますが、それも結構ですw

ただ、生き物だといるといないとか、
機嫌?や状態に左右されることがありますよね。

病気の姿に癒されたりはしませんし、
逆に滅入ってしまったりしますので、
自分が弱っているときには火に油です。

なので、お勧めはスポットも確保してみるです。

私は、この季節、街路樹の新緑にも癒しを感じますので、
感性が働けば、自分の場所を見つけるのは容易です。

どこが良いではありませんし、
私の知人はマンションの共有スペースにある「小さな噴水」が癒しスポットですww

お風呂も身近ですよね。

私は「朝風呂」は色々「降りてくる」ので欠かせません。

時間があれば水を飲みながら半日くらい入っています。

心の余裕がないときは、スポット探しも二の次になりそうですが、
意外と助けてくれますので、何となくでも「良い感じ」なところがあれば、
心に留めていてくださいね。

自分らしく=ストレスがない、ですが、なかなか難しいものです。


それでも、少しでも強張った心を和らげられるスポットやアイテムを
持っていてくださいね。

それは多いに越したことはありません。

さらに、心地よい場所に行ける時間があれば、
ぜひ出向いてください。

これからの季節は、一年の中でも心地良く過ごせる期間です。

そんな地球からの贈り物をありがたく受け取ってみてください。


それでは、一滴追加です。

感性のアンテナを伸ばしてくださいね。










人間ですから比べてしまいますよ [日々の気付き]


みなさん、こんにちは。

新年度の環境の変化などには慣れてきましたか?

まだまだという方は普通ですよw


今回は、これまでにもお話している「慣れ」などを含めて、
その根本にあるもの「比較」について話してみます。

まあ、説明するようなことではないのですが、
気持ち一つを取っても、何かと比較しながら良し悪しを判断したりするものです。

感じることをストレートに受け取れれば良いのですが、
社会で生活する上では、そうもいかないものです。


例えば、新年度の環境の変化もそうですが、

「今まで」と比較することで「慣れない」ことを認識したりします。

更に、その比較も「都合の良さ」や「心地良さ」に基づいているので、
「前より良い・悪い」という答えを導いてきます。

勘違いしてはいけないのは、これが悪いことではないということです。

私達は「もっと良くなりたい」と願っているのですから、

「何よりもっとなのか」ということになりますよね。

こんな感じです・・

「不遇の今よりも・・もっと良く」

あるいは

「今も幸せだけど・・もっと良く」

何れも「比較」しています。


こう考えると、比較なしというのは到底難しいです。

お釈迦様レベルなら別ですけどねw


問題なのは、比較の仕方なのですが、

「より良く」が健全です。

「今も良いけど・・もっと良く」には否定がありませんから、
波動の低下がありません。

よって、引き寄せるものにも「嫌なもの」が無くなります。


一方、極端な例ですが、「今は最悪」と比較してみます。

ちなみに、二つの分かれ道がありますので、注意しましょう。


まず1つ目は、

「今が最悪」だから、あとは何が変わっても上向きしかないです。

これは「どん底」にあって、開き直っている場合ですから、

実は、強烈な手放しを実行しますので、急上昇も見込めます。


もう一つは、

「今よりもマシになれば」です。

マイナス10がマイナス5になれば良いみたいな感じで、
一見、前向きではあるのですが、

マイナス局面とか、「底辺レベル」での推移を目論んでしまうと、
そもそも、0地点がどこにあるのかも分からなくなってしまいます。

「負のループ」から抜け出せない場合などがそうです。


この二つの違いですが、どちらが望ましいかは言うまでもありません。


しかしながら、分かっていてもどうにもならないものです。

だって、それが出来れば当ブログとは無縁ですよね。


勿論、私も例外ではなく、むしろ、あなたよりも重症の時があったと思います。


では、どうやって「今」に至っているのか。


私の場合は、他の記事でも書いたとおり、「どん底」を味わいました。

幾度となく「ここがどん底」と思いながらも、
「下には下」がありました。

初体験するのですから、ここが「底」というのは分からないわけで、
仕方のないことですが、

とうとう身動きが取れなくなったことで、
何の説明も要らずに「底」を認識できました。

文字通りに身動きが取れないのですから、
表現はできませんが、

分かりやすく言うなら、「選択の余地」でしょうか。

選択は「常にある」と言っていますので、矛盾を感じるかもしれませんが、
ここでは便宜上の言葉としてください。


私の場合、経済的な危機から「底」に至ったのですが、

金策に走るにも「これが良いかな」とか、
「これは嫌だな」なんて考えているうちは「余地」があったわけです。

既に「どん底」と思っていたのですけどね。


それが、出来ることは何でもしなくてはダメだになり、
「これは嫌だ」なんてことを考える「余地」がなくなりました。

正に「どん底」です(涙)


寝る前に「一日をリセット」なんて、キレイごとです。

というか、眠れなくなりますし、
浅い眠りから覚めた「瞬間」に、破たんの恐怖が襲ってきました。

毎日、毎日、ずっとです。

気が紛れるのは「仕事中」だけ。

といっても、「どうにかなるかも」と「ダメだ」を
四六時中、行ったり来たりです。

仕事が終わったり、離れている時間では、
常に恐怖に支配されています。

よく考えると、仕事も焼石に水で、
お金を工面しきれるものではないのですが、

それでも、その瞬間は「出来ることをやっている」状態なので、
「行ったり来たり」になれるわけです。

もう、お分かりのように「マイナス状態どっぷり」です。


でもです、お気付きかもしれませんが、
身に付けるべきことが網羅されています。

足りる足りないではなく、「出来ることをやる」ことで、
気が紛れたりすることには、

「出来ることをやる」という、幸せになるために欠かせない学びがあります。

そして、「どん底」での開き直りです。
どうにもならないことで、全てを手放した状態にもっていかれる。

好みや損得勘定があるうちは、何をやっても邪道だよとの、
メッセージが隠れていると思います。


だからといって、あなたに「どん底」を味わって欲しいのではなく、
私の経験から、「早めに」、「出来ること」から始めて頂きたいのです。

はっきり言って、あんな思いは誰にもして欲しくありません。
・・自業自得ですが(涙)


余裕があるうちに、次のステップに進む。

これは、幸せや成功を手にする鉄則です。


余談?になりますが、

私は「どん底」に陥ったことに安堵した部分があります。

強がりとか負け惜しみではなくです。


私は、今回の人生の目的について調べたことがあって、
知人の伝手を辿って、アメリカの著名なサイキックや、
アガスティアの葉、創造主(神様・宇宙など解釈は自由)からのメッセージなど、

スピリチュアルに興味のある方なら、
これ以上はないのでは?というコンサルを受けたのですが、

その中で、お金についてなら「ない状態も」経験すると宣言されていました。

ただ、「ない状態」を都合良く解釈していて、

「ほどほど無い」を経験すれば「上向く」と思っていたのです(汗)

でも、違ったわけです。

真の「無い(底)」を言わんとしていたのです。


勿論、これは「後談」ですので、
底の真っ只中にあっては、そんなことを認識する余裕はありませんでした。

考えることと言えば、「あの時こうしていれば・・」のオンパレードです。

マイナス局面で、負のスパイラルの中で、
後悔と比較を繰り返し続けていました。

ただ、あの経験があったからこそ、
こうしてお話しができているわけですし、

こうお伝えすることが「すべきでなければ」、
当ブログも存在していないはずと思います。


そして、「真のどん底」に至ったことで、

「これで上がれる」という、とても小さな「灯」が見えたのです。

それは、心のどこかで、良くなるためには「どん底」を体験しなくては・・

という、思いがあったのかもしれません。


だから、都合良く「良くなろう」と思いつつも、

どん底を引き寄せたのかもしれません。


良くなるための条件として、辛いことを避けられないと決めつけていた。

本当は、「別の道」もあったはずですけどね。

だって、人生は選択の連続ですから。


如何ですか?

またしても、話が私の「失敗談」にそれてしまいましたが、

比較なしが無理でも、「仕方」は意識してください。

比較の土俵を選んでください。

舞台下ではなく、舞台の上で比較してください。


良い部分を見つけて、「より良く」にスポットを当てる。

今が不遇なら、前より上向いていると思える比較が良いです。

現実的としながら、底辺レベルで「どっちがマシ」では、
光が見えてきませんよね。

例え、現実とのギャップが大きくても、
「どうなりたいか」は捨てずにいてください。


おそらく、どん底にあっては、難しいでしょう。

ならば、「ずっと、このままではない」としてください。


事実、私達は日々、変化しています。


細胞も数か月で生まれ変わっています。

普遍の法則からは外れられないのですから、
嫌でも変化します。


あとは、「今と違う」ことを許容する勇気を持って受け入れること。


どん底から「否応なく」なのか、

下り坂の途中で腹を括って受け入れるか。


どちらが「楽」かは、もう言う必要はないでしょう。


ただ、比較を甘えに繋げてしまうと、
残る選択肢がキツイものになりますので、ご用心です。

なんだか、子供に言い聞かせるような内容ですが、

年端も、性別も、優劣も存在しない、

人生は学びの場ですので、気付いた時が「最適」です。



でも、あなたは「最短」で良くなってくださいねww


いやあ、また思い出しただけでゾッとしましたが、

この時期は、過去を思い出す「トラウマ期間w」ですので、

お役に立てれば幸いです。


そろそろ、明るい話題で攻勢を掛けようと思いますが、
辛い時こそ、安心したいものですよね。

誰もが好調の波に乗っているなら、当ブログの需要はなくなります。

なので、これでもか!?な感じで「自分だけではない」と思って頂けるような、
体験談や立ち直りのヒントをお伝えし続けますよw

当「春記事」は、辛くなったら読み返してくださいね。


それでは、また躓きから立ち上がっていきましょうね。

引き寄せは常に作用しています。

人生の舵取りをすれば、自分らしい人生が待っています。

それが宇宙の法則です。

舵を手放さない限り、抗うことは出来ません。

追い風も逆風もありますが、
状況に左右されない「自分の望み」に従って舵を持つこと。

是非、お願いしたいと思います。



それでは、一滴追加です。

今回も最後までお読み頂き、ありがとうございます。




























どん底とその後 [ネガティブ処方]


みなさん、こんにちは。

前回はかなりダーク?になりましたが、
その後についても補足しておこうと思います。

題して、「どん底のその後」ですw

とは言っても、対処方法があったわけではなく、

私がどん底の時にしたこと・・

それは「借り物の身体」で過ごしただけです。

あれ、それだと終わっちゃいますね(汗)


どういうことかと言うと、

「このままではダメ」だとか、

「こうすれば良くなる」とか考えなかったということです。

正確には「考えられなかった」のですが。


どうにもならない状況にあるのは事実ですから、
夢とか希望なんて、別の世界のことなんです。

だから、人生を「消化試合」のように、
時間を費やす毎日を送っていたのです。

思考の全てが、うんざりする方へ向かうので、思考停止しました。

すべてと言いましたが、振り返ってみると思考はしますし、
内容は、光と闇を秒単位で行ったり来たりしていました。

「もしかしたらどうにかなる」と「やっぱり無理だ」の繰り返しを、
寝ているときでさえ行っていました。

本当に、寝ても覚めてもです。

まあ、裏を返せば、どこかで可能性を信じていたのかもしれません。

でも、自覚の部分では「どん底」のままです。

今、思うに、この光と闇の交叉を経験することが、
どん底の狙いだったのかなと思います。

それが、どう影響するかではなく、漠然とです。


私たちは「動けない」のが悩みだったりしますが、
動かざるを得ない状況に陥ることで、変化を生み出すことになります。


私の場合でなら、消化試合と感じながらも、
出来ることを淡々とこなしていたことが、変化に至ったです。

特に変わったことなどしていませんし、
首が回らない状況にあっては、色気を出した行動など取れません。


でもね、もし神様が見ているとすれば、
「出来ること」をやっているかどうかだと思います。

というか、それだけだと思います。

どんな行動をとっているかとか、

どんな結果を描いているとか、関係ないのだと思います。

ただ、ただ、行動に没頭している。


自分の人生を生きるという純粋な行動が、
必ず「次」につながるのだと教えようとしている、そんな気がします。

「へえ、そんなの簡単じゃん」と思うかもしれませんが、
純粋な行動って難しいものです。

日に数万回の思考を繰り返すのが人間ですから、
純粋というのは「つもり」であることが殆どかもしれません。

かつての私の場合、資金繰りに地獄を見たことで、
「何を考えても無駄」となったのが奏功したのでしょう。

食事すら摂らずに1円でも稼がなくてはと動き続け、
周囲に迷惑を掛けてしまうという恐れから目を背けた。

言葉にすれば悲壮感たっぷりですが、
引き寄せの法則と同様に宇宙の法則は
善悪や他との兼ね合いなど一切考慮しません。

一心不乱に進むことを教えるには、
時に荒療治が必要なのでしょう・・・私の場合ですが。

あれが出来る出来ないとか、

これは良いけどこれはダメとか、

感じることを邪魔する思考があるならば、
それを取り去ることを学ばない限り、望むものは手に入りません。

よく、人生は思う通りにならないものと言われますが、
それが正しいとは思いません。

一般的であるとは思いますが。


でも、本来、私たちは望む人生を送れるという前提の元に、
生を受けてきているのですから、

人生を全うするために、必要な学びを得る機会があるのは当然です。

ただ、それをいつも都合の良いものと考えてしまうことで、
良い事、悪い事というジャッジを入れてしまいます。

更に、勝手にジャッジした結果に勝手に縛られてしまい、
本来の道から外れてしまうのです。

宇宙は優しいですから、軌道修正をしてくれます。

道の外れ方によっては、修正に苦痛を伴うこともあるのです。


私の場合、苦痛すら通り越してしまいましたが、
それほど「外れてしまった」ということでしょう。

でも、勘違いしてほしくないのは、
誰もが私のような「憂き目」に合うのではないということです。

コツコツと出来ることを行動に移して、
時々、進む方向性を確認していれば、荒療治は防げます。

だから、出来ることをしましょう、って話すのです。


ありがちな、きれいごとを並べる成功論ではなく、
実体験から来る否定のしようのない処方箋と自負しています。

あなたが、これからも自分の望む道を進もうとするとき、

それが心から感じることであるとき、

出来ることを積み重ねなければ、
何れ、軌道修正やお尻を叩かれる機会に遭遇するでしょう。

また、そこでも「選択」がありますので、
「やっぱりやめた」もありです。

ただ、自ら今回の人生のテーマに掲げたものについては、
「やめる」は選択できません。


私の場合、人生のテーマに、「成功する」というものがあるので、
「どん底」を経験したり、そこから逃れることが出来なかったのです。

もっとも、必要な学びを得れば、文字通り180度の大転換があります。

要は、自分の人生のテーマを知り、それに邁進することで、
真の幸せに到達できるわけです。

今のあなたが窮地にあるなら、自分の心の願望に意識を向けてください。

そして、どれほどのギャップが生じているかを確認してください。

さらに、そのギャップを埋める行動をとること。

それこそが、幸せへの近道であり、
私のような荒療治を回避する方法かもしれません。

ちなみに、自分の人生のテーマは分からないという方もいると思いますが、
知りたいと感じたら、知る方法をお伝えしたいと思います。

まずは、出来ることをやる=どん底の「その後」です。

小さなことの積み重ねって、塵も積もればですので、
馬鹿にしないでくださいねw


それでは、一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。




トラウマ?・・・ありますよ。 [ネガティブ処方]


みなさん、こんにちは。

春の兆しが日に日に高まっていますねw

1か月前までは、「寒い!」を連呼?していましたが、
春の気配がこなれてくると、いつのまにか何のことやらです(汗)

まあ、人間って、こんなものなんですね。

良い悪いではなく、慣れの動物の本領発揮なわけです。


そんな季節の移ろいの中で、今回のテーマです。

トラウマですね。

最近?重めの話が多いですが、ここの情報は「いつか」役に立ったりしますので、
通るべき過程として取り上げたいと思います。


私は一人でも多くの方に、自分らしい人生を送って頂こうと活動していますが、
ネットで情報を探せば、同様のお手伝いをしている方が沢山います。

その多くの方が、「前向き」な情報発信の形を取っています。

勇気づけようとするのですから、手伝う側が「後ろ向き」では、
導きにならないわけですね。

まあ、当然なことですが、

あなたは、こんなことを感じたことがありませんか?

「この人(発信者)って、順風満帆できたのかな?」って。


私の場合、「親近感」とか「共通の思い」などを気にするので、
極端に言えば、正論や理想論を並べた100点な話には
いささか、違和感を感じてしまいます。

なので、酷い?経験をしてきたのに、これだけ立ち直っている・・

そんな「歴史」と自分の現状などがオーバーラップするほどに、
親近感や「信頼」を構築していきます。

余程のビッグネームかカリスマ性がない限りは、
「不幸自慢」が凄いほうが「自分でも大丈夫なのだ」と安心できるのです。



さて、前置きが長くなりましたが、
私の場合、どこにでもいる一人の人間に過ぎず、
人生を導いたり、スピリチュアルを語ることに
何の優位性も持ち合わせていません(汗)

むしろ、あなたと比較すれば、「軌道」から外れた
「可哀想」な半生を過ごしているかもしれません。


しかしながら、それが「売り」なんです。

「この人に比べればマシ」、そう思ってもらえれば、

自分もまだまだ捨てたもんじゃないな・・って感じるでしょ?w


そんなわけで、前向きよりも困った感の多いテーマ設定は、
意図したことなんです。

今でこそ、「自分らしい成功の道」に乗れた私ですが、

当然のこと?ながら「嫌な思い」を沢山してきました。



トラウマだって、ありますよ・・未だにね。

トラウマという言葉がフィットしているか、
解釈が皆さんと同じかどうかは分かりませんが、

過去の辛い経験を記憶から削除はできないのは確かです。

特に、今頃の季節は、数年前なら「どん底」の時期でした。

文字通り、いや、それ以上のどん底です。

多額の債務を背負い、月末の支払いの目途も立たない日々を過ごしていました。

やりくりなんて無理、どこもお金を貸してもくれない・・・


ほんと、今でもゾッとするトラウマです。


王道的なスピリチュアル系や成功系のノウハウだと、
「受け入れる」とか「昇華」させることで解決すると言います。

勿論、私もそうお伝えしています。


でもね、そんな簡単にできることではないのです。

ただ、「どん底」がゴールでもない。

人生は終末まで継続していますから、
「今」がこの先もずっと続くのではないわけです。

しかしながら、「見えない先」について、
現状を踏まえて推測するのですから、

「良い未来」を描くことはとても難しいです。


にも関わらず、前向きに・・、とか、希望を持って・・とか、浸み込む訳もない。


今のあなたはどうですか?

どん底でなければ、希望に目を向けることができるかもしれません。


一方で、以前の私のような境遇にいるならば、
どんな良心的な言葉であっても素通りしてしまうことでしょう。


意識を変えようとしても変えられないなら、「浸かる」しかない。

これは私が取った結論です。


変な話、最悪のことまで考えながら、
続く限りの人生を全うしようです・・語弊のないように。


世間体とか、社会的地位とか、生活水準の維持とか、

そんなものを気にすることなど到底不可能なので、
一日、一日を生き延びている、という感覚です。

毎日、借り物の身体を使って過ごしているかのようでした。


言葉以上の説得力を感じるカウンセラーなどは、
こんな経験をしている人が少なくありませんが、
あまり語りもしません。

理由は、波動の低下だとか、勇気付けるとか色々と思いますが、
結果的に「きれいごと」の羅列になってしまい、
聞き手の心から距離を隔てることになってしまいます。

「良き相談相手」であろうとする故のこととはいえ、
あるところから奥に入れない、響かなくなってしまうのです。

本当は、「経験談」があってこそアドバイスが生きてくるのですが。


私は、自分が大そうな者でないこと前提ですし、
「不幸自慢」が持ち物と自負しているので、

こんな心機一転な時期であっても、
過去のトラウマ回顧を普通にお話します(汗)w


さてさて、あなたにトラウマがある場合ですが、

払拭しようなんて考えなくて良いと思います。


わざわざ、大事にする必要もありませんが、
先ほどもお話したように人生は続いていくものです。

あとになって、「あの時は大変だった」と振り返ることもあるでしょう。

そうなれば、実は「解決」しているのです。


記憶は削除できないのですから、
どう付き合うかだけの問題です。

思い出したくもない、から「いやあ、ひどかった」でも変化があるわけです。


私達の人生において、「無駄なことはない」という捉え方。


辛いことも嫌なことも、経験すべきことだったのだと思えたとき、
「昇華した」という言葉を使えば良い。

期を待たずして、無理矢理に解決してしまおうなんて、
不遇の時を与えた神の意志に反することかもしれません。

とはいえ、ドップリどん底の渦中にあっては、
今回の話なども戯言としてスルーしてしまうでしょう。

それどころではない!ってね。


それでも、後で、振り返ることができるようになったら、
今一度、読み返して頂きたいと思います。


そして。


今のあなたが、私ほど「ひどくない」なら、

「あいつよりはマシだな」って、安心してくださいw


多少の不遇はあっても、「余裕」を感じてください。

その余裕を後ろ盾にして、前に進めば良いのです。


上には上がいるように、下には下がいますので、
どうぞご安心くださいねw


辛さと共に胸が締め付けられるような感覚。
私もずっと、忘れることは出来ないでしょう。

でも、それ以上のことも起こるという事実。

これからも刻々とお伝えしたいと思います。

躓きっぱなしが人生ではありませんよw


必要な経験は一方的なネガティブ事象ばかりではありません。


今回はかなり深めのテーマになりましたが、
忘備録としてストックして頂ければ幸いです。

勿論、小さなきっかけから大好転なんてお話しも沢山ありますので、

使えるものはバンバン取り入れてくださいねww


それでは、今回も一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。








自分がいる世界 [日々の気付き]


みなさん、こんにちは。

最近、声による自分の確認などをお伝えしていますね。

今回は更に派生して「自分がいる世界」です。


自分がいる世界はどこですか?と聞かれる、
結構、答えに窮します。

抽象的な質問のせいもありますが(汗)


自分がいる世界は・・現実世界?などしか答えがみつからないかもしれません。

あるいは、場面や環境ごとに「世界」と名を打つこともあるでしょう。

何も「どれか一つが正しい」ではないので、
色々な世界に身を置いているとしてみますが、

その中でも、一番長い時間、身を置いているのは、「自分の世界」だと思います。

誰の世界でもなく、自分の世界です。

「世界は自分のもの」では語弊がありそうで、エゴたっぷりな感じですけど、
ある意味正解だと思います。

現在の自分の人生のステージが「この世」であるわけで、
しかも、誰のものでもない自分の人生を歩いているわけですから、

そのステージも自分のもので良いと言えます。

くれぐれも、世界を我がものに振り回すではありませんよ。


さて、この自分の世界ですが、
本来、他の影響を受けるか否かも自分の選択に委ねられるので、

どんな状況にあっても、それは自分から発信した結果のことになります。


少々、厳しく聞こえるかもしれませんが、
人生は選択の連続で構成されているのですから、
大元は自分にあるのです。


そして、どのような世界を構築するかに関わるのが、「解釈」です。


先日お伝えしたように、野球の試合も応援する立場などによって、
「見え方」が変わってしまうのです。

同じチームを応援していても、
勝敗の感じ方さえ、他とは違う唯一無二のものとなります。


自分の世界にいるのですから、
自分の解釈に正しいも間違いありませんが、

我々は、都合の良い解釈を採用できないことが多々あります。


ある事に対して、悔やむことも出来れば、
次に繋げる起爆剤にすることも出来ます。

どちらが得策かなど言うまでもないことですが、
そのとおりに出来ないものです。

ただ、好まない解釈を野放しにしてしまうと、
主役不在の舞台を作り上げてしまいます。

この連鎖はとても怖いもので、解釈が事実にすげ変わり、
根拠のない思考や妄想が全てになってしまいます。

結果、夢や願望の存在を否定したり、
起こってもいないことの結果を「でっちあげ」てしまったりします。

やりもしないで諦めるのはこのパターンですよね。

動けないのも同じです。

動いて上手く行くことが分かっていれば、
止められたって動きます。

しかしながら、好ましくない「解釈+妄想」の連携によって、
最初から結果を想定してしまいます。

それでも、希望はありますから、解釈妄想と覇権争いをするのですが、
未知の不安が加勢して、希望は負けてしまいます。

それでも、捨てきらない希望の灯・・・

当然です。

だって、希望が人生に直結しているのが
魂のシナリオなのですから。


冒頭で解釈に成否はないと言いましたが、
自分らしい人生に、好まない解釈は不適合なものです。

なので、気を付けたいのは、
自分に相応しくない思考や観念やそれに由来する解釈が、
知らずのうちに身に付いてしまっているということです。

では、それを是正しなくては・・と思えれば良し。

しかしながら、そこですら、好まない「解釈+妄想」が働けば、
「治らないよ」で終わりになってしまうでしょう。


以前、妄想のススメをお伝えしましたが、
心地よい妄想でなければしないほうがマシになります。


今までの解釈がダメ基準でも仕方ないとしますが、
せめて、妄想ぐらい心地良いものにしたいものです。


誰に訴えるでも迷惑を掛けるものではなく、
自分の希望を温めるために想像力を駆使しましょう。

叶う叶わないのジャッジは要りません。
心は自由なのですからね。


一番長い時間を過ごす「自分の世界」なのですから、
誰に遠慮するでもなく、居心地の良い世界にしてくださいねw



それでは、一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。









自分の声はひとつにあらず・・自分チエック方法 [日々の気付き]


みなさん、こんにちは。

今回は、前回からの派生で「自分のチエック」についてです。

正確には、自分の状態のチエックですが、
鏡で見た目とかではなく、内面のことです。

まあ、鏡の前に立っても表情の違いは確認できるのですが、
今回は違ったアプローチです。


これは私の場合なのが、

私は、当ブログをはじめとして、
各媒体への投稿に感じることを優先しています。

仕事柄、段階を踏んだ情報の伝え方を意図することもありますが、
スピリチュアル関連の記事を綴る際は、感じることを記すのは欠かせません。

とはいえ、いつもパソコンを開いているわけではありませんし、
パソコンの前にいるときに感じることだけでは、物足りないものです。


そこで、以前は、「メモ」を取っていました。
メモといっても、ペンと紙を取り出すではなく、
携帯電話などにメモするわけです。

どこかに行ったときに感じたことや、
移動の際に、ふと降りてきたことなどを書き留めてみるわけです。

本来は、「その場で投稿」が良いのかもしれませんが、
メモしたものは見返したときに、感じるものをピックアップしていますので、
クリップしたものすべてが記事になるわけではありません。

そんなスタイル?の私ですが、
あるときから「声」でメモを残すようになりました。

理由は、ボイスメモのほうが、簡単で早くて正確だからです。



以下、長く?なりますww


突然ですが、あなたは「自分の声」を聞いたことありますか?

声とは、肉声のことですが、マイクを通したり、録音などされたものです。

自分の声というと、「内なる声」を連想しそうですが、
今回はリアルな声、肉声です。

話しながら聞こえてくるものではなく、
記録された声を聞く機会って、

ありそうで、ないかもしれませんよね。


私は会社員時代にも講演やスピーチなどで自分の声を聞いていましたが、
当初は、嫌で嫌で仕方ありませんでした。

マイクを通じて「聞こえてしまう」のですが、
自分の声が嫌いとか、コンプレックスではなく、
なんだか気持ち悪い感じがしていたのです。


それが、手前みそですが、「声の評判」が良かったりして、
お褒めを頂いても、謙遜ではなく「実は嫌でして・・」などと言っていたのですが、

ある方から、「自分の声を聞くといいですよ」と言われました・・会う度にです。

??だったのですが、周波数みたいなものを褒められて、
「売り」としての財産として捉えなさい、なのかと思っていましたが、

要は、心理学的にも「自分の声を活用」すると、
内面へのアプローチに効果的ということで、

人に心地よさを与えるのだから、
自分自身には、もっと効果的ということなんですね。

とはいえです。

今となっては率先して活用していますが、その時は「できない相談」でしたw

しかしながら、嫌々ながらも試してみると、
慣れるまでに時間は掛かりませんでした。

最初は記録用のビデオを見ながら、
修正点などをチエックしていたのですが、

「嫌感」がなくなると、ボイスメモなどに活用し始め・・
ある時、気付いたわけです。

声に表情があったり、その時の自分が全て詰まっていることに。

これは、感情抜きの単なるメモとして残している声を
聞き返しているときに感じたことです。

感情がないのに、その時々によって「何かが違う」わけです。

それが気になって、記憶を辿りながら思い返してみると、
確かに色々な状況や心持ちが隠れていました。

それ以来、「声を貯める」ようになり、
今では、環境や置かれている状況などに影響を受ける思考や意識よりも、
正確に「自分の状況」を把握するツールになっています。

「声は全てを知っている」です。


もし、あなたが「自分が分からない」状態にあるなら、
ぜひ、「声を録る」ことを試して頂きたいと思います。

自分記録という点でもお勧めです。

今流行りの「自撮り」でも良いですが、
用途のあるなしに関係なく携帯電話などで、ふと思ったことや、

定番の文言を、その時々で録音しても良いと思います。


自分は何者ぞ・・が分かるほどではないでしょうけど、
声の波動は分かるはずですから、

何が好ましくて、何が好ましくないかを探る手段になります。


よく、心の機微を日記で綴ることが推奨されますが、
声の日記なら、更に強力な自分記録になります。

良い状態の声を聴けば、その時を想起しやすくなりますから、
マインドセットがしやすくなるでしょう。

何かを自分に言い聞かせるのも、
他人の声よりも自分の声が浸透し易いですからね。

良質な音声教材などに、波動を意識しているものがあるように、
音には文字には出来ない浸透を促す力があります。

私もこうお話していることで、
当ブログの文字を違う形で表現できればと考えていますw


ですが、まずは「声」よる自分のチエックを提案したいと思います。

小さな試みですが、これも自分表現の立派な手段です。

内気な性格でも、周囲を気にしてしまう性分でも、
問題なく自分らしさを表現できる舞台になります。

いかがですか?


たった一言でも、日記でも、

思いの丈を綴るものでも構いません。

そこにいる自分を外から確認してみることをお勧めします。


きっと、気付いていない一面を発見できると思います。


聞き返すことに抵抗があっても、残すことは容易いもの。

ぜひ、録り貯めてみてくださいねww


それでは、一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。










見ているものは本当に同じか [引き寄せのあれこれ]


みなさん、こんにちは。

桜も開花して、春を実感する毎日ですねw

今回は春うららな景色からの気付きです。

メディアではお花見のシーンなどが取り上げられていますが、
「お花見」も人それぞれです。

純粋に風情を愛でる人もいれば、
花より団子の人もいます。

当然のことながら、「花」が主役ですが、
花にまつわる人々の感じ方や赴く先は異なります。

同じ景色を見ているのに、
見え方や感じることは確実に異なります。

というよりも、同じに見えることはありえませんし、
感じ方がきっちり同調しているか比較のしようもありません。

私達は「同じであろう」を「同じ」に置き換えているわけです。

この話をすると終わりがなくなるのですが、
目の前の現象は「自分」が作り出しているというのも、
なんとなく分かるような気がします。

さて、今回のテーマの「見ているものは同じ」ですが、

例えば、甲子園の高校野球を例にしましょう。

ある試合を観ていても、どちらを応援するかによって、
感じ方は違いますよね。

勝つか負けるかだけでも、
同じ試合が、「良い試合」にも「悪い?試合」にも変わります。

同じものを見ていても、喜怒哀楽は人によりけりです。

更に。お子さんが晴れの甲子園に出場しているとします。

ある親御さんは、子供が活躍して勝利を収めたなら、
きっと、何度でも試合の録画を見返すことでしょう。

しかし、負けたらの親御さんはどうでしょうか。
残念なことに自分の子の失策が原因で負けてしまったら・・

その試合を二度と見ないかもしれませんよね。

少なくとも、活躍シーンと失策のシーンとでは再生回数が違うでしょう。
・・同じ試合なのにです。

これは自分と他人の場合のことですが、
「試合」そのものは唯一無二です。

私達の日常も、こんなことの繰り返しです。

個人だけで見た場合、同時に感じ方の違いを比較するのは難しいですが、
いつもの通勤路だって、気持ちの持ちようで景色が違うものです。

一々、そんなこと気にしてない、と言われると終わりですが(汗)


私達は感じることを共有できると嬉しくなるのですが、
それは、個性が唯一のものと解っていることの裏返しかもしれません。

自分が感じることに是非を問うてしまうのは、
「一人」であることに不安があるのかもしれません。

ただ、これを理解してしまっている人は、とても強い。

没個性によって、安堵感を求めるのとは逆に、
「違ってこそ自分」であることをメリットとして全面に出せるからです。

没個性と言いましたが、意図せずそうなってしまうのは別の話です。

周囲を気にして埋没してしまうことが問題なのです。


勿論、社会で生活するには周囲との調和は欠かせない部分がありますが、
それを、あれもこれもと括ってしまえば、何れストレスが爆発します。

「気付きの機会」としては、むしろ喜ばしいのですが、
わざわざ、ストレスを溜める必要はありませんよね?


人と自分では見え方は違うことを前提にするのが肝要です。

更に、自分の中でも度々「色めがね」を掛けていることも理解しましょう。

悪い方に考え易くなっているとき、

波に乗って好調なとき、などです。


どちらが好ましいかは言うまでもありませんが、
とはいえ、思うように操作できないのが人間です。


それでも、自分がどんな状態であるかを客観視できれば、
どんな「めがね」も、掛けていることを認識できますし、
感情的にならなければ、自覚するのは容易です。


自分の状態を把握することは、とても大切なことです。

「できているよ」と即答できても要注意です。

「疑ってかかる」という言葉は好きではありませんが、

「あれ、なんかおかしいな」と感じられるセンサーを持つのはお勧めです。


いつもの言い方をするなら、「自分らしさ」から外れたら、
センサー作動でしょうか。

あるいは、しんどくなってきたら疑うでも良いと思います。

早急な解決までいかなくても、
「おかしいな」ということに気付けるようにしましょう。

そこにフタをしてしまうと、
何をしても、見ても、うんざり三昧になってしまいます。

疲れ果ててしまう前に、
「見え方」や感じ方に注意を払ってくださいね。

次回は、続編で「チエック法」を紹介したいと思います。



それでは、一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。


成功ノウハウのからくり?・・再び [日々の気付き]


みなさん、こんにちは。

今回は、以前にも取り上げた「成功本」についてです。

先日、知人が開催したセミナーに顔を出した時のことですが、
相変わらず、成功ノウハウって結果が出にくいな、感じたので、
改めて取り上げたいと思います。

セミナーは、起業を志す方向けのものでしたが、
参加者の質問の中に、書籍を参考にしているけど、
結果が出ない、実践できない(継続できない)という意見がありました。

それも、一人の方の発言で、堰を切ったように挙手が相次ぎ、
以前として多くの方が悩んでいると感じました。


そんな役に立たない?成功本ですが、相変わらず出版が相次いでいます。

読者のレビューなどをみても、☆が羅列されていますので、
読者個人の主観とは言え、安易な商業主義的な書籍が淘汰されながら、
残対的な内容の質は上がっているのだと思います。

しかしながら、依然として95%の「実践者」が成功に至っていない言われます。

数値等の信ぴょう性は担保できませんが、
多くの方が「言う通り」になっていないのは察しがつきます。

良書を参考にしているのに、結果が出ないとしたら、
端的に実践者の問題と解釈してしまいそうですが、

実は、ここが問題なわけです。

あなたにも経験があると思いますが、
「言っていることは分かるけど・・」というものです。


非の打ちどころのないような教えを話すのは、
誰にでもできることですよね。


ただし、崇高な教えであっても、実践者目線で導くようなものでなければ、
無用の長物と同じです。

悲しいのは、そういったものが依然と多いことですが、
成功系の書籍のスタンダードが、「導き」から「安息」へと
すげ変わっているように思えます。

「これをやれば上手くいく」という教科書ではなく、

「これを読めば安心できる」のような錯覚です。


要は、悩みなどの解決を目的とするのではなく、
「大丈夫」を伝えているかのようです。

勿論、意図したものではないでしょうが、
何か、右へ倣え的な「現状維持」=大丈夫だよ、といった無難な説得です。

一方、神との対話やバシャール系の本のように、
創造主等との「やりとり」を伝えることを主立てているものなら、
考え方を説いているので、理に適っています。

読者の要求に関わらず、著者の意思を満たしているわけです。

しかしながら、手法を伝えるのであれば、
実践可能であるかや再現性を無視することはできませんし、
謳う以上は、結果に導く必要があります。

とはいえ、人それぞれに悩みや背景など、ケースが違いますので、
何れにせよ、読み手のアレンジがなければ実践はできません。

このアレンジの必要性は、ある意味で一番重要な部分ですが、
おそらく、「成功者」であろう本の著者が、
目線を下げることができていないように感じます。

だから、温度差が生じてしまったり、
そもそも、「理想論だよね」と実践以前に諦めてしまうのです。

本来、成功ノウハウは伝えるだけから、
実際に結果を出させることを主眼とするべきなのですが、

なぜか、未だに踏み込めていないのが現状です。

変な話、良かれと思って手にした本が、
背中を押してもくれず、自分と正論とのギャップを再認識して、
人生に興冷めしてしまう人もいます。

私も同様の情報を発信していますので、
お前もだよ、と言われてしまうと悲しい限りですが、

当ブログでは、狭いカテゴリーの中を、
ひたすら繰り返しながら綴っています。

先へ先ヘが目的ではなく、
ある部分までの脱落者を減らすことを目的にしているわけです。

具体的には、「引き寄せの初歩の躓き」なのですが、
同じことを言い方やケース事例を変えながら、
ひたすらお伝えしているのです。

読者の方の中には、「まんねり」のように感じる方もいるでしょう。

実際にトレンドなどを持ち出しながら新鮮さを意識していませんし、

誰にでもある日常の中からテーマを見つけているので、
狭い部分での特化を意識しています。

なので、当ブログから得るものは汲み取れたと感じたら、
卒業して次のステップに進んで頂けるのが本望の一つでもあります。


話が反れましたが、成功本で上手くいかないときは、
内容を鵜呑みにするのではなく、
「自分の場合は?」という置き換えが必要です。

この部分を避けてしまうと、
どんな良書も結果へ導くツールになりません。

とはいえ、新たに手にした本が、他と同じ知識や情報と感じても、
必要なことは自分の身になるまで形を変えながら巡ってきますので、
深く浸透させることに無駄はありません。

例えば、「あれ、これ前にも読んだよ」というものがあれば、
身に付ける必要があるのに、まだ身に付いていないのかもしれません。
だから、また廻ってきたと解釈するのが良いでしょう。

「本当に分かっている」と「分かっているつもり」の差は大きいです。

蓄えた知識が、自然に応用できるようになること、
それが、身に付いている、です。

こう話すと、「反復の積み重ねか」と思われるでしょう。

実際、そうなのですが、一方で、

「もう、飽きてきたよ」と感じたりもしますよね。

そんなときは、「離れる」べきです。

今、最優先で注力することが他にあるとの暗示です。


自分では、順序立てているつもりでも、
内面の自分は、そうではないものを欲しているため、
集中できなかったり、疑いを持ったりします。

それを「駄目な自分」とか、「役に立たない情報」として処理せずに、
他に優先することがあるのだと解釈して頂くのが良いと思います。

先にも述べましたが、成功ノウハウは、
安心材料としての位置づけが強い気がします。

「上手くいかない自分でも大丈夫なんだ」です。


勿論、それが間違いではありませんが、
そこで安心して終わりでは、当然のことながら前には進めません。

必要なのは、「大丈夫」という安心感を支えに、
次の一歩を踏み出すことです。

その一歩は、高尚なものではありません。

手にした本について「こんなの出来ないよ」とか、
「理想でしょ」と感じてガッカリするようなら、

そもそも、今は必要のない話であり、
それよりも、いつもと違う自分を試すほうが、
書籍代の何倍もの価値があります。

まとめてみますと、成功系の書籍は「面倒」を見てはくれません。

あくまでも、提案の域を脱しないものとして捉えるのが肝要です。


そして、新たな本を読むことが、
「安心材料」になっていないかを問うてみてください。

「これを読めば変われます」は厳しいです。

相変わらずのセールスワードですが、
「変われない人」は減っていません。

まあ、自分が動くことで変わるのが基本ですから、
動かない前提で、本を漁っているなら、
欲しいのは「現状維持の肯定」かもしれせん。

もし、成功本に依然とてしっくりこないものがあれば、
一度、知識集めを止めて、既にある知識を思い返してみてください。

要らぬガッカリ感を演出するために、
新刊に手を伸ばすのは勿体ないこと。

既に、十分な情報を持っている場合は多いです。

足りなければ、乾いたスポンジのように情報を吸収しますし、
その過程も楽しく感じられるものです。

少なくとも、うんざり、がっかりはしないです。

今回は、視点を変えて、
成功本に感じる思いに目を向けると良いかもしれません。

自分の現状分析のツールとしての「本」の役割。

本の内容に失望しそうになったら、
何を期待してしまったのかを調べてください。

くれぐれも、気分の下降に直結させないようにお願いします。

成功ノウハウについては、また取り上げてみたいと思いますので、
あなたなりの「疑問」があれば留めておいてくださいね。


それでは、一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。







がっかりすること [日々の気付き]


みなさん、こんにちは。

いよいよ、四月ですね。
新年度で心機一転とかあると思いますが、当ブログはいつもどおりですw

さて、今回は「がっかりするとき」ですが、ありますよね?

何かに期待をして、それに結果が見合うか否かが分かれ道なのですが、
要は、自分の思惑に沿うかどうかで「裏切る」ものに「がっかり」します。

最近の私のことでお話するなら、スパムメールでしょうか。
こういった区切りの時期などにも多くなるのですが。

あなたも、パソコンなどでメールを使用していると思いますが、
メールマガジン等に登録すると、定期的に情報が入ってきますよね。

この登録ですが、信用に値するものとか有用なものを選んでいると思います。

私の場合、情報入手用のアドレスを用意していて、
真摯なものを、文面などから推察しながら登録していますが、
その点は一緒だと思います。

こうして、「選定」しているのですが、
先日、スパムトレイに「ゴミ」が多いのに驚きました。

そもそも、スパムメールはお決まりようにやってくるのですが、
厳選した相手(メルマガ等)を登録しているにも関わらず、
迷惑メールがやってくるわけです。

何かの売り込みだったり、怪しいものばかりです。


これって、知りえないはずのアドレス(私は複雑にしてあります)に、
送信してくるのですから、要は「アドレスが漏れている」わけです。

では、どこから漏れているかといえば、
「登録」してあるもののどれかになります。

「せっかく?信用したのに・・」で、がっかりします。


とはいえ、表面上のメルマガ文面では、真面目を装っているのですから、
大っぴらに怪しいものよりも質が悪いです。

なので、がっかり感もより大きくなります。

私も情報発信している身ですが、
本当に信用できるものは少ないなと思ってしまいます。

騙してやろうとかの意識はなくても、
商売がかった魂胆があるのは明らかでしょう。

少なくても、信用して頂いたアドレスの管理ができていないのは、
悪気はないからと許されるものではありませんし、

信用してくれていることを軽く扱っていると思います。


まあ、「信用するからいけない」といえば、それまでですが、
信用第一という言葉だってありますからね。

世の中から信用がなくなったら・・ゾッとしますよね。

そもそも、私も一方的な期待はしませんし、
人それぞれという考えを持っていますが、

素朴に?がっかりします。

あなたは、最近、がっかりしたことありますか?


あれば、それが過度な期待によるものか、
それとも、相手などの故意や悪意によるものか。

その辺を見極めてみると、
余計ながっかり感を減らすことができるかもしれません。

とは言っても、何も誰も信用しないになると、
それは、自分すらも信用していない可能性もありますので、要注意ですし、
自分以外は信用しないと決めてしまうのも悲しい限りです。

何が信用できて、何が信用できないかは判断が難しいところですが、
少なくても、色々な展開があることを容認する度量を持ちたいものです。

なんだか、自分にも言い聞かせている感じですが、
当ブログはあなたの信用頂いて綴れていると思っていますので、
今後とも、よろしくお願いしますねw


それでは、今回も一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

追い詰められたとき [ネガティブ処方]


みなさん、こんにちは。

3月もいよいよ終わりですね。

4月からは新年度でもありますが、
大晦日と元旦もそうですが、端的には「昨日と今日」です(汗)

こう言うと、しらけてしまいますが、
物事は解釈次第ですから、心機一転が自助力を促すのであれば、
大いに「理由付け」するべきですし、

既に「波に乗っている」ならば、そのまま突き進めば良いと思いますw


今回は、年度末で多忙を極めている方へのワンポイントです。

多忙=やることがいっぱいある、だとか、時間が足りないなどの状況にあると
思いますが、どうにしても手も頭も一杯ですよね。

この追い詰められた状況をどう解決するかは、「黙々と熟す」に尽きると思います。

おそらくは、周囲にも助けに応じる余裕もないでしょうから、
年度末とは「そういうもの」というオチを使うのが得策です。

少々、いい加減ですが、オチがあるだけマシなんですよね。


さて、一方、仕事などでなくても「追い詰められる」ことがあります。

自分の進路の判断であったり、支払いの期限が迫っているとか、
いろいろとあります。


そんなとき、どうしているかと言えば、
自己の内面で葛藤を繰り広げています。

どうしたらよいのか・・・

どうにもならない・・

こうだったらよかったのに・・

なんでこうなっているんだ・・

などなど、「隙間」の時間をフルに活用して格闘します。

そして、途方に暮れてしまう。


これ、実は私の回顧です(汗)


最終的には、考えてもどうにもならないので、
出来ることに無理矢理に意識を向けて、
どうにもならないことから意識を離そうとします。

それは、とても苦痛な時間の積み重ねであり、
こんな心境がずっと続くのかと思いながら、
うんざりした日々を送るのですが、

「無理矢理」な時間も数日続くと、慣れが生じ始めます。

最初は無理矢理で「やるしかない」状況であっても、
それは、やっている(継続)という形に変化を遂げていくわけですね。

これは、言い換えると、考えるから行動へとシフトしたことになるのですが、
多くの場合、そのことには気づいていません。

意識として残っているのは、「少し楽になった」くらいでしょう。

しかしながら、この「楽になる」ということはとても大きな進歩なんですよね。

だって、「ダメだ」と悩み続ける段階から抜け出したことで、
起こる変化なのですから。

そして、この状況の変化を俯瞰できる余裕が出来た時に、
「やれば変わるんだな」なんて、涼しい顔をしています(汗)

その時は、地獄の極地と思っていたのに。


今回は何が言いたいのかというと、

「追い詰められる」のは、「プログラム通り」ということです。

私達は、良くも悪くも変化を嫌います。

それが、願望の達成に関わる変化と分かっていてもです。

未だ起こってもいないことへの詮索を得意としているばかりに、
「頭でっかち」な時間を延々と繰り返すことをスタイルとしているのです。

でも、当然のことながら、それでは何も変わりませんので、
問答無用に動かざるをえない状況まで引き延ばした後に、
関が外れたかのような状態になるのです。

勿論、これは私のような人間の例ですので、
行動第一でテキパキと動ける人もいると思います。

では、私のような不出来な人間の行動様式は悪しきものなのかというと、
そうではないのですね。

同様の方はご安心頂きたいのですが、
人それぞれにスイッチの入るタイミングは異なりますので、
その人に合った形で最適なタイミングが訪れるのです。

とは言うものの、「もっと早くに・・」などと思うもので、
動いたら動いたで、後で後悔の嵐が吹き荒れるのですが、

「終わり良ければ」で済ませて頂きたいと思うのです。


だって、悩んでいる時は、それで一杯なのですから。


私は今でもゾッとするのですが、
どうにもならないのに金策に走り回ったこともあり、
直近の悪い「未来」ばかりが脳裏を支配していました。

「どうにもならないのに」です。

胸が締め付けられるような息苦しい時間を重ねながら、
それでも、そこから離れることができませんでした。

そして、散々に悩んだ挙句に、

「どうにもならない」と分かったのです。


そこから先は、最善を尽くすことしか出来ないのですが、
そう納得して尽くしたわけではありません。

先にも述べたように、気持ちを紛らわすために、
出来ることを続けたのです・・苦痛と共に。


何度思い出してもゾッとする記憶ですが、
二度と「そんな思い」をしたくないと感じて、

出来ることから動いてみることが、
「悩みの支配」を防ぐ方法と理解しています。

勿論、根本的な解釈の仕方も心得ることができたので、
今、こうしてお話しができたり、
全ては最適とお伝えできるのです。

私達が経験することに一切の無駄はありません。

時に、自分の不注意や不出来によって招いたピンチであっても、
それは経験すべきことであったのです。

例えば、事前からピンチを回避しながら過ごしていても、
あらゆる現象を駆使しながら必要な経験をすることになるのです。

それが、受け止めらるようになった時が、
実は経験の先にある「成長」なのです。

「追い詰める」という、半ば嫌がらせの味わいが意図されたのではなく、

メンタルを強くしながら、最適な形で成長させるのが狙いなのです。

誰の狙い?・・自分自身であり、創造主であり、宇宙であり、神であり、

魂の成長という人生の目的です。


人生は魂の成長の場ですので、
歩みの中で、色々なことに遭遇するのですが、
同じ失敗はしないとか、簡単に達観などはできませんよね。

だから、追い詰めれたって良いのです。

それが仕組みなのですから。


もっと早く、どうにかなったのに、なんて思うことはなく、
追い詰められてこそ、気付きが得られたのだと解釈してみる。

なかなか、はいそうですか、とはいきませんが、

それでも、「お尻を叩かれたけど踏ん張ったのだ」と思えることが大切です。


今、この瞬間にも追い詰められている方がいると思います。

とても苦しい時間が続いているかもしれません。

でも、その苦しみを見ている存在があります。

「馬鹿だな」ではなく、微笑ましく、応援の眼差しで見ています。

それは、自分自身です、神様だって見ています。


掛け算を間違えながら必死に覚えようと努力している子供を
頑張ってるな、と微笑ましく見守っているのと同じです。

「なんで、そんなのが出来ないんだ」なんて思いませんよね。

頑張るとか、失敗という言葉はあまり使いたくないのですが、

頑張れば、直ぐに何でもできるわけではありませんし、
失敗しながら成長していくのが人生です。

出来なかったことが出来るようになる、
その繰り返しで、今日まで来たのですから、

これからだって一緒ですw

駄目な自分を味わい尽くした先に、
自分だけの成功が待っています。

「追い詰められる」のは、そこに至るための大いなるステップです。


悩むな動け!ではありません。

悩み尽くして、追い詰めれて、その先がある。


通るべくして通る道なら、ジャッジなしで行きたいものです。

悩みの渦中にあって、そうは思えなくても、

そこで終わり、ではないということ。


是非、心に留めて頂きたいと思います。


「お先真っ暗」が人生ではありませんので、

一見、地道で、「これで何が変わるの?」と思えても、

あなただけのタイミングで、また歩き始めてくださいね。

私は、いつでも応援していますw


そして、自分の幸せを手に入れましょう。


それでは、一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。







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