SSブログ
スピリチュアル ブログトップ

思考とインスピレーションの使いわけ [スピリチュアル]


それでは、早速、綴ってみます。


思考とインスピレーションですね。


インスピレーション=感じることですが、


私たちは生活の場面の大半で「思考優位」のポジションにあります。


それは社会生活を送る上では避けて通れない部分でもあります。


「人に迷惑がかかるから」、「こうするのが常識だから」などと、

行動や言動に制限を持ち込むのですが、

実は、自分が思ったとおりで良い場面でも、こうした「規範」などを多用します。


結果、息苦しくなってしまうわけですね。


これは個人の性格にもよりますが、

繊細な人ほど、苦しんでしまいがちです。


よく、気にしない性格の人について、

嫌味半分で、「幸せな人」などと揶揄したりしますが、

本当、幸せな人なんですw


必要以上に周囲に振り回されない自分というものを、

意図せず、持っていたりするわけです。


前述の揶揄する人達も、心の奥底では、

うらやましいと思っていたりします。


自分には出来ないけど、いいなあって感じです。


もし、あなたが繊細な人で、考えすぎて悩んだり、

行動等に制限を加えやすいのであれば、

一人の時は、感じるままに行動して欲しいと思います。


道を歩いていれば、「あそこに寄ってみたい」なんてこともあるでしょう。


そこで、「でも、寄り道すると・・・・」みたいに、

思考で行動をブロックする理由を探さないようにしてください。


もちろん、思考優先の癖は昨日今日で身に着けたものではありませんので、

そうそう、はい、そうですね、とはいかないでしょう。


それでも、行動までもっていけないにせよ、

「ははーん、いつもなら、ここで思考に判断させちゃうんだよね」と、

もう一人の自分に見てもらうように意識してみましょう。


ちなみに、私が当ブログを再開したタイミングは、

金木犀が香ったからです(汗)w


私は一年の中で、

5月の新緑が生え揃う時期と秋の金木犀が香る時期が一番好きです。

この時期は、何の理由がなくても、

五感を通じて波動が高まります。


この時期になったら、と意図していたわけではなく、

自然に波動が高まる時期に、自然に再開したということです。


もっとも、波動は伝播しますので、

波動の低い場所には近寄らないとか、

良い波動を持って人に接しようというものは身に付いていますので、


今回も最適なタイミングを感じ取り、

素直に行動に移せたと思っています。


以前、心地よい場所を探しましょう、という記事を書いたのですが、

日々の生活では、探さなくとも、心地よい場面や場所があったりします。


ただ、「最高に心地よい」みたいに、白黒はっきり付けがちで、

少しでも心地よい、ではダメと思い込んでいたりもします。


なので、嫌な状況から少しでも良くなるものは、何でも「白」です。


そんな白探し、できると思いませんか?


思考もインスピレーションも不可欠なものですが、

どちらか、一方では上手くいかないものです。


そして、多くの人が思考便りになっているなら、

出来るところから、インスピレーションを採用してみるのが得策です。


小さな一歩がで劇的な変化につながったり、

小さな気付きが、大きな転機をもたらすのは、

スピリチュアルの常識です。


些細でも感じることを馬鹿にするなかれです。


先ずは、あなたの思考と感じることのバランスを確認してみてくださいね。



それでは、久々に一滴追加ですw


最後までお読み頂き、ありがとうございます。








機会の提供と不介入 [スピリチュアル]


みなさん、こんにちは。

今回は「機会の提供と不介入」ですが、??でしょうかw


何のことかというと、宇宙の法則です。

神様の優しさでもあるのですが、前回お話した「扉」に関連します。

私たちには、いつでも可能性が用意されていますが、
ないと感じてしまうのは気づけないからなんですよね。


そして、この可能性ですが、「開く扉」として、
宇宙が「常に」提供してくれています。

分け隔てなくです。

そして、神様は自分らしい人生を送ることを「諦めない」ので、
チャンスを掴み損ねてしまっても、また機会を提供してくれます。

あるいは、失敗したと思えることであっても、
そこで終わりではありません。

それが「優しさ」なのですが、勘違いしてはいけないのは、

「手取り足取り」ではないということです。

チャンスを提供してもらえたら、それを活かすのは自分です。


言い換えるなら、「行動」なくして成功はないです。

手取り足取りはしない=不介入の原則なんですね。


私たちの人生は学びの機会でもあるので、
学ぼうとしなければ、前に進むことはできませんし、

ただ何もせず自動的に上手くいくような仕組みはありません。

上手くいくには、それまでの行動が伴っているもの。


周囲に上手くいっている人がいるなら、
何もしていないのに上手くいっているわけではなく、
そうなるための行動が、積み重ねがあるのですが、

人を羨む際には、その部分をないものとしがちです。


「なーんだ、やっぱり動かないとダメなんじゃん」と思いますか?w


優しい言い方をするなら、そう思っても構いません。


ただ、願望の達成を心から願っているなら、
今、どう思っていても、いずれは動かざるを得ない時が来ます。

それは、一見、苦しさの連続と思えるかもしれませんが、
通る必要があれば、必要な経験であれば避けることはできないものです。


逆に言うなら、辛さを避けて行くこともできますが、
自分が願う方向には進まないかもしれません。

それでも、目の前の「辛さ」を回避できます。
と言っても、小さな不満は溜まっていくかもしれませんし、

「良い人生だ」と言えるかどうかは疑問ですが。


ここまでだと、

「行動ありきだなんて、やっぱり良い人生って難しいのだ」と思えてしまうでしょう。


でも、行動=辛いではありませんよ。


やりたいことをしているときは、時間の経過も忘れてしまうものです。

疲れだって感じないかもしれません。

より良い人生を手にするための行動って、こんなものです。


苦痛を感じてしまうのは、「道」が違っていたり、
そもそも本当に目指したいものかが問われます。

辛いと感じるなら、辛くない行動が何なのかを、
自身に問うてみる機会です。


機会の提供は様々な形でやってきますが、
どれを選ぶかは自分次第ですし、その選択も行動の一部なのです。


もちろん、あれこれやってみて、
自分にとっての本物を見極めていくのもの「原則」ですから、

試してみたけどダメだったでも、失敗なんかではありません。

むしろ、自分がどうありたいかが分からないなら、
色々と試すことで「自分らしさ」が見えてくるものですし、

自分を知るための「機会の提供」だって大有りです。

神様(宇宙)の優しさは単なる機会の提供ではなく、

一人ひとりに合ったものが、順序よく提供されるということです。


もし、あなたが、

「機会は受け取れたけど、思っていたものではない」と感じたなら、
順序の認識が相違しているのかもしれません。


それは「思うものと違うからスルーする」でも構いませんが、
やはり必要なものであれば、同じ機会がまた巡ってきます。

私もそんな経験があるのですが、何度も巡ってくるうちに、
それが正当な順序であることが認識できるようになります。

そして、後になって「もっと早く気づいていれば・・」と思うのですが、
時間を要することでさえ、織り込み済みなのです。

もちろん、普段から柔軟な姿勢があれば「もっと早く」も可能でしょうが、
それは後日談に他なりません。

「たら・れば」に時間や思考を費やすよりも、
いつでも最適なタイミングなのだと、素直に受け取ることのほうが、
近道につながります。

とかく、私たちは後悔に労力を払いますが、
それさえ、それさえも計算されていることならば、

もはや、考えるだけ無駄という結論に至るでしょう・・最適な時期にねw


今一度、申し上げますが、機会は提供されます。

でも、手取り足取りはありません。

機会の提供を受けたら、選択と行動は自分の仕事です。

あまり難しく考える必要はありませんが、
心かから強く願うことがあるならば、

その「方向性に合うもの」は素直に取り入れてください。

近道とか遠回りなどに損得や気を取られずに、
方向性を頼りに受け取ってみる。

いきなり出来ないことが巡ってはきませんので、
出来ることから始めてくださいね。

思いのほか、面倒でなかったりしますのでねw


今回は機会の提供と不介入の原則をお伝えします。


それでは、一滴追加です。


最後までお読み頂き、ありがとうございます。






選択肢は二つ [スピリチュアル]


みなさん、こんにちは。

今回は、久しぶりに重要なことをお浚いしてみます。

選択肢は二つ。


当ブログでも、「人生は選択の連続」とお話していますが、
結構、忘れているものです。

何か、大きな決断を下す際などで、
「これで良いのだ」と自分に言い聞かせたりするときに、
思い出したりするのですが、普段は、意識から外されています。


もっとも、一々意識していたのでは疲れてしまいますし、
「決心」して下した判断が、意図しない結果を招いたりすれば、
自己不信に繋がったりもします。

なので、常に意識しなさいではありませんが、
根本の部分で、毎日が過去の選択によって構成されているという、
仕組みを理解しておくべきでしょう。


さて、冒頭の「二つ」ですが、
日々の生活の中では、色々な選択肢があると思いますが、

その「質」という点では、ざっくり二つに分けられます。

一つは、喜びや平穏に繋がるもの。

もう一つは、怖れに繋がるものです。


私たちが選択する基準は、怖れの有無に関わります。


例えば、「いつもどおり」の選択は平穏に繋がるものです。

一方、未知や冒険に感じることは、怖れの対象になります。

こうお話しすると、自分がどちらを選び易いかが分かると思います。


というか、多くの場合は冒険はしませんので、
「いつもどおり」の生活が維持されますが、
これは、ある意味では「狙い通り」なわけです。

「いつもどおり=慣れている」ですから、
たとえそれが不遇な状態であっても、懸命に維持しようとします。

そこで、現状から抜け出したいという意識が芽生えると、
未知の選択をする方向へ進むのですが・・・

現状維持をシステム化していますので、
抜け出す選択は容易にはできません。

「もう、だめだ」とか、「こんなの嫌だ」という気持ちが育つことで、
やっと踏み切ることができるのですが、
そこに至るには長い時間が掛かり、多くの葛藤もあります。

「もっとよくなりたい」のに、どうしても動けない人は、
自分と葛藤している最中だと思ってみてください。

前に進む上で大切なプロセスを踏んでいるのです。

もったいないのは、葛藤中に諦めてしまうことです。

動けない自分に嫌気がさしたりすることで、
あと一歩かもしれないのに諦めてしまう。

ただし、人生は学びの場ですから、
諦めたつもりでも必要なことは何度でも「ぶり返し」ます。

魂が成長のテーマを持って生まれた以上、
クリアすべきことは何度でもやってきます。



毎日は選択の連続であると仮定したとき、
あなたの選択したことの選択理由は何でしょうか。

些細なことでも構いません。

何故、それを選択したのかを問うてみてください。

理由は後付けに過ぎず、
怖れを避けることが優先になっているかもしれません。

思い描く理想の自分が現在の自分と違うとき、
進む方向を修正するには変化が必要になります。

変化とは、未知を選択する冒険である可能性があります。

大英断ばかりを「変化」と捉えれば、怖れも巨大なものになりますが、
小さな変化を重ねることでも得られる結果は等しくなるものです。

先延ばしによる、「いつか」の大転換を覚悟できるのか。

それとも、小さな冒険を重ねてメンタルを強化しながら、
思う方向へ舵を修正していくか。

これさえも選択です。


怖れに支配されて現状を維持するのも自由ですが、
目指す姿とのギャップを埋めるなら、日々の「選択」を意識してみる。

如何でしょうか。


スピリチュアルでは、選択という言葉が当たり前のように使われますが、
あまりに身近過ぎて、見落としがちになっているものです。

「何かしなくては」と構えることが変化の一歩ではありません。

構えなくても、常に選択の機会が目の前にあります。

「いつもどおり」なのは、選択の機会があるということ。

そんなふうに捉えてみませんか?


毎日は選択の連続ということ。

改めて意識してくださいねw


それでは、今回も一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。






スピリチュアルを感じたとき [スピリチュアル]


みなさん、こんにちは。

今年も節分がやってまいりましたね。

節分は読んで字の如く「季節を分ける」ということですが、
仏教(密教)や道教では「星祭り」や「星供」などと言って、
重要な祭事でもあります。

今回の「スピリチュアルを観じたとき」ですが、
私の場合、初めて「何とも言えないものを感じた」のは、
世界遺産にもなっている高野山を訪れた時でした。

昔のことですが、
「日本人は自国の文化を説明できない」と言われていたことがあり、
当時、留学を目論んでいた私は、日本文化の代名詞的に感じた「仏教」を
理解すべく?体験修行みたいにお寺の門を叩きました・・大袈裟です(汗)

短い間ですが、お寺の一日を体験しつつ、
宗派に限らず仏教そのものの理解を深めたのですが、
その時に感じた山の「空気」に、
スピリチュアルど素人だった私も、
言葉にならない荘厳さを感じました。

長い参道を進んで行くほどに、
頭の中から余計な思考が無くなっていくのを感じました。

上手く言えませんが、歩きながら瞑想した感じでしょうか。

樹齢数百年の杉の巨木が生い茂る静かな道のりでしたが、
それだけが原因とは思えませんでした。

高野山に限らず、神社仏閣、霊場やパワースポットなどでは、
こうした「違う空気」を感じられる方が多いと思います。

何が違うのか科学的根拠などは分かりませんが、
感性を刺激するという点で「何かある」のだと思っています。

ちなみに、数年を経たのちに訪れても、
やはり違いを感じますし、心が洗われるように感じますので、
私にとってのパワースポットなのだと思っています。

パワースポットという点ではセドナなども有名ですが、
あなたは自分のパワースポットってありますか?


色々な名所や旧跡、あるいは身近なところでも、
ピントくる場所があれば、ぜひ、訪れてみてくださいね。

気分のリフレッシュというと、在り来たりな感じですが、
内なる自分と繋がる場所を探してみてください。

思うにならない毎日から、自分を癒すのは大切なケアです。

ちょっと疲れた時とか、力が欲しい時に、
自分の思考や感情が上向く場所があったら、
是非、大切にしてみてくださいね。

近くの自然でも、お店でも良いのです。

周囲の価値観に従う必要はありませんので、
自分の環境整備を意識してみてください。

思い立ったが吉日です。

自分の感じることを頼りにする良い機会と思って、
気分転換を取り入れてください。

なんか、高野山をはじめ、あれこれ思い出しましたので、
またメルマガなどでお話したいと思いますw


それでは、今回も一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。


錦織選手の活躍に感じること [スピリチュアル]


みなさん、こんにちは。

全豪オープンテニスで錦織選手が活躍していますねw

以前なら「躍進」なんて言葉を使っていたのが、
今では当然の活躍になっています。

もちろん、彼の実績がそうさせているのですが、
それだけではないと思います。

先日、4回戦の中継を観ていたのですが、
NHKで解説していた福井烈さんは、
錦織圭選手の醸し出す「雰囲気」をメンタルの強さや
技術面での賛辞に置き換えながら表現していたように思いました。


世界ランク5位とはいえ、勝負の世界ですから、
勝つかどうかは終わってみなれば分からないので、
ヒイキ目に解説すれば、どことなく違和感を感じるものです。

福井さんも当然「身びいき」の感はあったと思いますが、
違和感などありませんでしたし、至って冷静な視点での解説でした。

観戦した方なら感じているかもしれませんが、
錦織選手には「風格」が漂っていました。

結果的に危なげなく勝ったと言える試合でしたが、
内容的に「安心」して観ていられたのは、
やはり醸し出す何かがあったのだと思います。

私は、この雰囲気などを「波動」とかオーラと表現してみますが、
別にどう言っても問題ではありません。

自信は現れるのだと、単純にそう思いました。

張りぼての強がりではなく、
内面から湧き上がるものです。

そこには、言葉では言えない説得力を感じます。


これと似たようなことで、
元ヤンキースの松井秀喜選手を思い出しました。

2009年のワールドシリーズ第6戦でのことですが、
NHKで解説していた伊東勤さん(現ロッテ監督)の言葉が
とても印象に残っています。

第一打席で、松井選手がホームランを打つ直前に、
伊東さんは、「雰囲気がありますね」と言いました。

そして、ホームランを打った後に、
伊東さんは自ら「鳥肌が立っています」と言っていましたw


私も学生時代を通じて野球をやっていましたので、
少し専門的な見方などしますし、

投げた打ったとは別に、
試合のポイントや「雰囲気」的ものを感じながら、
観戦していますので、この時は「ドンピシャ」でした。


話が反れそうですが、
このような雰囲気って、誰もが感じることが出来るものです。

テニスや野球に限らず、
また、スポーツに限らずです。

自分が精通してい分野などでは、
同じように「肌で感じる」ことがあるかもしれません。

目に見えないけど・・っていうことありますよね?


科学的な見地からすれば、否定されてしまうかもしれませんが、
人間の持つ五感は説明できることばかりではありません。

特にスピリチュアルなどは、
まだまだ否定的な見方をされることが多いです。

ただ、そんなことはどうでもよくて、
自分が感じることへの信頼が必要だと思います。


誰も信じてくれないけど・・と悩む必要はなくて、
自分は信じている、ということが大切なのです。

ただ、誤解したくないのは「自分のこと」という点です。

「自分を信じる」ということです。


自分以外の誰かを「信じている」のは、
自分の都合の部分です。

人は変化しますから、
「信じていたのに・・」 というのは、
独りよがりになってしまうことがあるのです。

だからと言って、「人を信じるな」というのは極端すぎます。

信じていても、「人は変わる」ということを
盛り込んでおくことが大切です。

そして、予期せず相手が変化したなら、
「その人らしさ」として捉えることができる、
そんな寛容さを身に付けたいものです。


さて、少し話が反れてしまいましたが、
錦織選手が醸し出す「自信」ですが、
あなたは感じたでしょうか。

言葉に頼りっきりにならずに、
感じることに目を向ける。

錦織選手の活躍には、
こんなメッセージも含まれていると思います。

試合に勝つという主題とは別に、
色々な貢献をしてくれる錦織選手をずっと応援したいと思います。

そして、こんな貢献は身近なところにも沢山あります。

あなたも貢献していますw


私たちは周囲との関係において、
お互いに貢献しあいながら成長しています。


錦織選手の活躍は、高い波動とともに、
私たちに勇気を与えてくれますが、
もっと他にも何かを与えてくれています。

時に悲しいことがあっても、
そこから何かを汲み取れたなら、
人は成長していくことができます。

低い波動を感じたなら、
それを打ち消すことを考えることもできます。

どうしたら打開できるのか。
その時に分からなくても、脳への問題提起は済んでいます。

そして、解決できたなら、
同じように悩んでいる人へ貢献することができます。

自分が自分がという視点を手放すと感性が鋭くなります。

私たちが受け取れることは、
身近なところに沢山散りばめられています。


今回は、錦織選手の更なる活躍を祈りつつ、
改めて思うこととしてお伝えしますw


それでは、一滴追加です。


今回も最後までお読み頂き、ありがとうございます。



有名芸能人の離婚 [スピリチュアル]


みなさん、こんにちは。

今回は時事ネタ感ありでお話します。

テーマは「有名芸能人の離婚」です。

ああ、あれね、って思う方もいると思いますが、
今回は高橋・三船夫妻を例にさせて頂きます。

連日のように、ワイドショーを賑わしている二人ですが、
私も幾度かテレビで拝見しました。

事の次第は当事者にしか分かりませんが、
メディアの意図がどうあれ、

二人の表情からは温度差を感じます。

男性の方には、未練というか、
現状を元に戻したいという意識があるようにも感じますが、

女性の方には、メディアの声を伏せても、晴れやかさを感じます。

まだ「決着」に至っていないようですが、
「周囲」の説明を鵜呑みにせずとも、
かごの鳥が自由になった、ような印象があります。

この二方に関しては、
理想的なカップルのような印象を持たれていますので、
離婚騒動に至ると、話題性が高くなるのは理解できます。

私が思うに、良い夫婦という位置づけは、
本人達が意図して宣伝したわけでもなく、
賞を与えたりしたのも周囲の一存です。

そんな「良い夫婦」というポジションにいた二人ですが、
元はといえば、どこにでもいる夫婦です。

職業などではなく、婚姻関係という点では、
その手続き等を併せて、どこの夫婦とも違いはありません。

言わば、持ち上げられて、引き落とされた、わけです。


今回は、二人の結婚生活がどうこうではなく、
結婚を出会いと別れという視点で取り上げてみます。

良い夫婦に訪れた離婚という機会ですが、
これって、天地がひっくり返るようなものではありません。

そこには彼らからの貢献があると思います。

例えば、離婚したいと思っている方からすれば、
「あんなに仲良し?の二人だって別れるんだ」と、
ある種の勇気をもらうかもしれません。

また、自分達の夫婦関係を見直す機会を得るかもしれません。


離婚については、賛否が分かれるところですが、
私の考えでは、反対する理由がありません。

勿論、一時の感情などは除きますが、

自分らしくあることが、離婚に通じるならば、
それを引き留める理由がないと思っています。

とはいえ、当事者(家族)以外は、他人事の域を脱しないので、
「簡単に言うな」と思われるかもしれませんが、

ならば、尚更、本人達の意向は尊重されるべきでしょう。


よく「バツ〇」とかの表現がありますが、
離婚によって、真の幸せを手に入れたなら、
バツではなくマルと言っても良いと思います。


ちなみに、私の周囲でも、
自ら「バツイチ」とか言う方がいますが、
それは、自分を卑下しているように聞こえます。

私は、気心が知れた仲であるなら、「バツではない」と伝えますし、
自分の幸せを優先した勇気ある行動と解釈します。


少なくとも、一度きりの人生において、
自分の道を進むための決断で肩身を狭くなるのは、
どうかと思いますし、
世間的にも見方を改める必要があると思っています。

ただ、こうお話しすると、

残された子供はどうなる!とか、

一生添い遂げる契約が結婚だろう、などと、

ご意見される方も多いと思いますが、私はそう思うのです。


法的にみても、離婚という制度があるわけですから、
選択の機会が一度きり、とは限らないわけですし、
努力云々ではなく、うまくいくかは誰にも分からないのです。

まして、若いうちに結婚するのことを理想とするなら、
成否の判断は難しいものです。

一度の選択という点では、就職もあります。

学校の卒業と同時に会社に入るというのも、
以前なら、終身雇用を前提としていました。

「最後まで勤め上げる」のが当たり前にあっては、
転職など愚の骨頂とされ、一度、「道を外れる」と、
アウトローのレッテルを貼られてしまいました。

景気の傾きなどによって、
雇用形態などに変化が生じたため、
今となっては、転職で肩身が狭くなることは減ってきましたが、

それでも、この道一本で勤め上げることを良しとする考え方が、
なくなったわけではありません。


もちろん、職業についても、
職を変える必要性があると言っているのではなく、
どんな選択も「あり」で良いということです。

前後しますが、離婚によって「子供がどうなる」ですが、
私の友人にこんなケースがありました。

この友人は、夫婦関係が上手くいかなくなり、
当人同士では離婚したいと思っていながらも、
子供が傷つくとの思いから、数年が経過していたのですが、

いよいよ、「もう無理だな」という時に、
思い切って子供達に「離婚」の考えを話すと、

当時、小学生だった2人の子供達は、
「それでいいんじゃない」という旨の答えをくれたそうです。

子供達には、両親の繕っている姿が分かっていたのです。
そんなことを感じながら、「そこで過ごすこと」に
違和感を感じたのかもしれません。

後談で友人は、
「もっと早く打ち明ければ良かった」と言っていましたが、
私は「それは違う」とはっきり言ったのを覚えています。

ただ、「子供のことを考えた」つもりが、
一方的な押し付けであったことの例になります。

思いは伝播することの例ですが、
共有するというよりは、不快感が伝わった例でもあります。

子供から親を見る目は、
鏡と反面教師的なものであることがしばしばです。

どちらが正しいのではなく、

どれをとっても経験として積まれていきます。

以前は言い訳として使われた、

「子供のためを思えば離婚」というのも、
まんざらではありません。


なんだか、離婚推奨のように聞こえそうですが、
間違わないでくださいね。


人生を最後まで過ごせるパートナーに会えたなら、
それはとても良いことです。

でも、一度で会えないことだってあるのです。

正しいと思った選択が、そうでなかったとしても、
決して悪いことではありません。

自分の進む道ではないと感じて、
その思いを誤魔化しようもなくなったときは、
新しい選択が必要とのサインかもしれません。

そんなときに、世間体などを優先すれば、
自分の人生の舵を手放すことになり兼ねません。


結婚は端的に、
他人同士が同じ屋根の下で生活を共にするのですから、
個と個のぶつかりあいと思っても良いのですが、

「思いを同じくする」という前提が強すぎるあまり、
人生すら同じものと勘違いしてしまうのです。

そこで、気付きを得ながら、
お互いを尊重していけるなら素晴らしいことです。

でも、「違う相手」と敢えて一緒になることで、
自分の人生や本当のパートナーを考える機会を得ることもあります。

有名人のゴシップも気付きの機会になります。

今回の離婚報道から、何を感じるかが、
あなただけの気付きの機会になります。

余談ですが、有名人の方には、
自分の姿を以て貢献するというテーマが良くあります。

企業家の破産報道などにも、
生き方のヒントが隠されていたりします。

それがどんな貢献になるかは、
受け取り手次第ですが、
貢献の届け手には、多くの人への発信があるのです。

如何でしょうか。

事の善悪に縛られずに、
フラットな視点から自分の気付きを得てみる。

色々なところにヒントが溢れていますので、
ワイドショーも視点を変えて観ることをお勧めします。


それでは、今回も一滴追加です。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。







スピリチュアル ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。